アパートに住みだしてから、ダンスとアルバイトの日々が始まりました。
ダンススクールは、デンバー滞在中にダンスを習っている生徒さんに聞いたアルビンエイリーアメリカンダンスセンターというダンススクールで、
習い始めるまでこのスクールのことは全く知りませんでした。
ですから、どんなダンスをするかもわかりませんでした。
ただいい学校でダンスを習いたかったのです。
アルバイトはダンススクールの近くの日本のラーメン屋さんでした。
両方ともニューヨーク、マンハッタンの真ん中に位置するブロードウェィ劇場街にありました。
初めから、かなりハードスケジュールでした。
週5日アルビンエイリーで、午前中にダンスクラス、その後すぐにアルバイト、またダンスクラス、そして夜の11時ごろまでアルバイト、土曜日は違うダンススタジオでタップとバレエのレッスン受講、ダンスクラスのない日曜日は、朝から夜まで1日中アルバイトでした。
唯一アルバイトのない土曜日の夜はアルビンエイリー舞踊団を中心に舞台を見るか、TVで日本語放送を見ながらルームメイトとお酒を飲んでいました。
とにかく睡眠が十分に取れていなかった私は、いつもダンスレッスン中でフロアで行うエクスサイズ(特にマーサグラハムテクニックのクラス)の時に寝てしまい、横にいるクラスメートに起こされていました。
ダンスのレッスン中に寝てしまうという事は、よっぽど睡眠不足だったのでしょう。
又は、私の集中力が足りなかったのか。
また、たまに午後の空き時間が出来るとセントラルパークのベンチで寝ていました。
暗くなってくると、黒人のおじさんに「危ないから起きろ」とよく起こされたものです。
ダンスのクラスは、始め何の知識もなくスクールに入ったので、
初日から先生に「明日から白いTシャツと黒いタイツで来なさい(初日はジャージを履いていました)、そしてバレエのクラスを取る様に」と言われました。
そしてあわててバレエシューズを買いに行きました。
ダンスを初めて習う私は、ダンスが何と難しいものかとその時思いました。
世界中から生徒が集まる有名な学校でしたから当然です。
でも何とかレッスンとバイトをこなしていました。
事件
学校とアルバイトが始まり、半年ほど経ったころに事件が起きました。
アルバイトをしていたラーメン屋に強盗が入ったのです。
以前から、そこで一緒に働いていた台湾人のおじさんに、
「ここはたまに強盗が入るから気を付けてね」と言われていました。
私はそんな話を半信半疑でいつも聞いていました。
全く自分に起こるとは思ってもいなかったのです。
冬の寒い夜でした。
お客さんはもうみんな帰って、ウインドーの霜で外が見えない状況でした。
私が一緒に働いていた日本女性とまかないを食べていた最中に、
アラブ系の男性が二人入ってきて、
金を出せと私たちに銃を向け、
私たちは両手を頭の上に置いて地面にうつぶせにされました。
あ、これが台湾のおじさんが言っていたことだと思いだし、
「金は持っていっていいから撃たないでくれ」と言ったとたんに私は撃たれました。
もちろん、私はこのことを今書いているのですから命は助かりました。
何か一瞬痛みが走った気持ちがありました。
それから、強盗たちが過ぎ去ったのが分かって起き上がると、
私の左手は血まみれでした。
しかし、不思議とその時はそれほど痛みは感じませんでした。
「警察に電話を」一緒に働いていた女性に言いましたが、
同僚の女性は気が動転していたので、私は右手でポリスに電話をしました。
すぐに警察は駆けつけましたが、事情徴収をするだけで私の怪我には全く気を留めていませんでした。
ポリスが来て30分ほど経った頃、店のオーナーがやって来て私を病院へ連れて行ってくれました。
最初の病院へ行ってみると「これは治らない」と一言、
日曜日の夜だったせいか帰れと言わんばかりでした。
日本では考えられないような対応で、こんな病院があっていいのだろうかと考えている間に次の病院へタクシーで行くとすぐに私は手術室へ運ばれました。
目が覚めたら、翌朝でした。
最初の入院は10日間で、私にとっては生まれて初めての、それも外国での入院でした。
正直なところ、私の当時の思いは「撃たれてしまった」「怖い思いをした」と言うよりも、ダンスとアルバイトの息のつけない毎日から解放されて、ホットしていたところがありました。
好きなことをやっていて満足していたはずなのですが、肉体的に相当きつかったのではないかと思います。
それから退院して、何日か後に手術のため、また1週間入院しました。
その時の手術は、弾が貫通した左手薬指の下に手首の骨を少し取って移す作業でした。
麻酔は左手だけでしたから、意識ははっきりしていて周りが見えます。
医者がラジオを聴きながらやっていたことを覚えています。
ラジオなんて聞いて、手術は大丈夫だろうかと私は少し心配でした。
それが原因かどうかは分かりませんが、私の左薬指は元通りにはなりませんでした。
リハビリをしっかりしなかったせいもあるかもしれません。
それで左薬指は、現在でも曲がったままです。
何年か後のダンスオーディションで、指を伸ばすように言われた事を覚えています。
特に覚えているのは、ミュージカル”King and I(王様と私)”は、タイの話でタイ舞踊が多く出てきます。
手のひらを上に向けて出来るだけ指をそらせる動きがあり、
私の場合、左薬指だけは真っ直ぐに伸びないので、振付師は気が付いて私に注意したことがありました。
また、今でも時々生徒さんが私と同じように(私の動きを細かく見てくださっている証拠です)左薬指だけを曲げて手を開いている事があります。
日常生活には全く支障はないのですが、このように、
指を曲げているのがダンスの正しい形だと思ってしまう生徒さんには申し訳なく思いました。
2回の入院の後、ダンスを踊りたくてたまらなかった私は、すぐ左手に石膏をはめてダンスに復帰しました。
石膏の重さ分だけ左側が重たい私は、始めバランスを取るのが大変でした。
特にバレエの「ピロエット」と言う回転は、それまでもあまり上手く出来なかったのに、
全く出来なくなってしまいました。
石膏をはめてやっているのですから当然です。
また、固い石膏に体が当たると痛いので、クラスメートは、ダンス中は私に近寄らないようにしていました。
今考えると、ちょっと無茶をしていたように思いますし、
クラスの先生もよくやらせてくれていたなと思います。
アルバイトは手が治るまで休みをもらい、失業保険で生活していました。
事件後、警察署で容疑者の顔を何人も見せられましたが全く分かりませんでした。
後になって聞いたのですが、
この私の事件はその年のニューヨークの日本人の三大事件のひとつで、
あとの二つも殺人で加害者は亡くなったそうです。
事件の時、頭を狙われたと思うのですが、手だけを撃たれたのは、
私にはもっと生き延びてやらなければならないことがあったからだと思いました。
親には心配させたくなかったので、一年後に伝えますと、
その年に私の父は草刈り機で足の指を、
材木会社で働いていた兄は同じく指を切ったそうです。びっくり。
でも何とか二人とも指はつながったらしいのですが、ひどい状況だったそうです。
家族の男三人が、同じ年に指を切るということは「何かある」と思い、
私の中では先祖の行った償いと、考えることにしました。
従って、怒りなどというものは全くありませんでした。
ただ、事件後一年くらいは、NYの街を歩くことに常に恐怖心がありました。
手からは石膏が外れて、ますますダンスに夢中でした。
1年が過ぎた頃から、仲良くなったフィリピンの友人が所属していたダンスグループに参加したり、仲間と一緒に自主公演をするようになりました。
しかし、1年半が過ぎたころから、膝の調子が悪くなってきて、得意とするジャンプが出来なくなってしまいました。
柔軟性とジャンプ力が人より優れていると過信していた私は、いつも張り切ってジャンプしていました。
しかし、着地の膝の使い方が良くなかったせいか、膝を痛めてしまっていたのでした。
いくつかの病院に行きましたが、全く良くなる気配はなく足を休ませるいい機会だと思い、初めての日本への帰国をしました。
たった2年間日本を離れていた私ですが、日本に帰ってみると自分が浦島太郎のように感じました。
ちょうど、実家から割と近い名古屋に、手の専門の医者がいると聞いて指を診てもらいに行きました。
行ってみると、先生は「3ヶ月ここに通えば治るよ」とおっしゃって下さいました。
でも、3ヶ月もダンスから離れることは出来ないと思った私は、お礼だけ言って帰りました。
なので、今も左薬指は曲がったままです。
膝の方は、日本の接骨院と休養でかなり良くなりました。
あっという間の日本での1ヶ月が過ぎて、ニューヨークに戻ってすぐにダンスを始めました。
しかしジャンプを思い切ってすると、膝はまた痛くなってしまいました。
この頃の私は、体をいかにケアしていくかがまだわかっていなかったようでした。
私が通っていたアルビンエイリーダンスセンターは、あらゆるジャンルのソロダンスのクラスがありました。
スクールの名前にもなっている創始者のアリビンエイリーという黒人ダンサーが中心にやっていたホルトンテクニックというモダンダンス、
マーサグラハムテクニックのモダンダンス、クラシックバレエ、ジャズダンスなどが主なスタイルでした。
他にアフリカンダンスのダンハム(エクスサイズが相当きつかった)、
ブラジルの格闘技とダンスを合わせたカプリエラ(少林寺拳法をやっていた私には有利でした)、ストレッチクラス、振り付けクラスなど、色々ありました。
その頃はヒップホップなどのストリートダンスは文字通りストリートだけで踊るものでクラスで教えることはまだありませんでした。
ただ、タップダンスだけはなかったので、これは違うスタジオで習っていました。
2年半通った頃、ほとんどのクラスは上級クラスまで行けましたが、
クラシックバレエはまだまだでした。
バレエはダンスの基本ですから、もっとしっかりと身に付けたいと思っていました。
ダンスシアターオブハーレム
ある日、トリニダード・トバゴ国出身の黒人クラスメートから、
ダンスシアターオブハーレムの奨学金オーディションを一緒に受けに行かないかと誘われました。
ダンスシアターオブハーレムは、マンハッタン153丁目のハーレムにあるクラッシックバレエの学校です。
黒人の舞踊団と言えば、当時通っていたアルビンエイリーダンスカンパニーか、このダンスシアターアブハーレムが世界的に有名でした。
アルビンの方は、モダンで、ハーレムの方はバレエのカンパニーです。
やはりハーレムと聞くとちょっと恐いイメージがありましたし、学校どころかそのエリアも行ったことがない場所なので不安はありましたが、
クラシックバレエの学校への転校を考えていた所だったこともあり、行ってみようと決めました。
ところが、待ち合わせの場所に行きましたが、待ってもそのクラスメートは現れないので、仕方なく私一人で初めてのハーレムに行きました。
学校に着いてすぐにクラスに入り、オーディションが終わると色々と書類に記入するように言われ、明日から来るように(合格です)と言われました。
ここから、3年半のハーレム通いが始まりました。
ダンスシアターオブハーレムは、バレエを中心に公演するダンスカンパニーですが、
附属の学校で私は毎日レッスンを取りました。
スカラーシップをいただいていたので授業料は払わなくてすみました。
アルビン・エイリーの時と同じく、月曜から金曜の朝九時からクラシックバレエのクラスがありました。
これもアルビンの時と同様、服装は男性は白いTシャツと黒いタイツ、そして白か黒のバレエシューズです。
その後は、男性だけのメンズクラスやタップクラス(どういう訳かバレエ学校にタップクラスがありました)、
リフトが入るパ・ドォ・ドゥクラスや音楽や歴史クラス(眠たくなるのでよくさぼっていました)、
アフリカンダンスなどの特別クラス、
時間のある時は、夕方のキッズクラスも取っていました。キッズクラスと言っても、学べることが大変多くありました。
2年ほど経ってから、ワークショップアンソンブルという、小学校やニューヨーク近郊で公演するグループに入れてもらえました。
この時から、バレエシューズと少ないですが給料も支給されることになりました。
ニューヨークが子供への文化芸術紹介を積極的に行っていることもあり、
我々は時々朝早くから6人くらい編成で2グループになって、小学校めぐりをしました。
40分位のバレエ中心のパフォーマンスをやり、その後舞台の前方端に腰かけて、小学生たちとQ&Aの質問コーナーを行います。
まずは、我々一人ずつが出身地を言いますが、色々な国からのメンバーがいました。
イギリス、カナダ、メキシコ、バハマ、キューバ、タヒチ、トリダード・トバゴなどの様々な国の人がいました。
アジア人は私一人でした。この質問コーナーではアメリカ人の子供が何をどのように考えているのかよく分かり、とても興味深い時間でした。
そして次の学校で同じことを繰り返します。
小学校のオウディトリィウム(どの小学校にも劇場があり、ジム(体育館)は別にありました)に着くと、男性は床にリノリウムを敷いてテープを貼り、バレエ用の床を作ります。
女性は、トゥシューズを履くこともあり、自分の身の回りの準備やウォームアップに専念します。。
野外の公演も時々ありました。
記憶にある野外公演のひとつは、男性が赤いふんどしのようなものを履いて、
帽子をかぶったり手袋をしたりして、とにかく肌を見せるものでした。
筋肉隆々の黒人たちの中で、当時は体が細く白い肌の私は、これはまずいと思い、
前日にセントラルパークに体を焼きに行きましたが、
全く効果はなく、ひけ目みたいなもを感じながら舞台だけをこなしました。
オペラのポギー&ベスや、黒人の話の舞台には、やはり色の白いアジア人の私は入れてもらえませんでした。
ミュージカルの世界に段々と興味を持ち出した私は、膝も調子がよくないままもあって、
3年半いたダンスシアターオブハーレムをやめました。
次にヘンリ・リ・タングというタップスタジオに毎日通うことになりました。
このヘンリ・リ・タングというタップダンスの世界では有名な先生も黒人の方でした。
何故3つも続けて黒人のダンススクールに行くことになるのか、これに関しては未だに謎です。
前世で私は黒人のダンサーだったのかもしれないと時々思います。