第3章 ダンス修行②


ダンスの基礎を終えて

 

アルビンエイリーに通っているときは、アルビンエイリーダンスカンパニー(舞踊団)で踊ることを目指し、

ハーレムのスクールの時はダンスシアターオブハーレム(舞踊団)で踊ることを目指していたのですが、

結局はどちらも入らず、この二か所は生徒として6年間通いました。

 

後半の2年半はいろいろな舞台で踊らさせていただきました。

 

これで私のダンスの基礎が一応身に付きました。

 

もちろんバレエはダンスの基本ですから、ハーレムのスクールを辞めてからも近くのバレエスタジオには毎朝通いました。

 

これからは身に付いたダンスの基礎を活かして色々な舞台を経験していくことになります。

 

また、歌の個人レッスンや役者の学校のクラスも取り始めました。

 

日本の大学時代(殆ど学校へは行っていませんが)に、将来の夢みたいなものを2つ描いて壁に貼っていたことがありました。

 

作家とミュージカル俳優です。国語が苦手な私でしたが、ぐうたらな作家生活(実際は全く違うと思いますが、若い自分はそう思い込んでいました)に憧れていたのだと思います。

 

ミュージカルへの思いについては、さっぱり自分でも分かりません。

 

アメリカに来るまでは、かの有名なウエストサイドストーリーでさえ、もちろん観たことなく、名前すら知らなかった私です。

 

 

ミュージカルという単語に漠然と憧れるものがあったのでしょうか。


タップダンススタジオ

 

タップスタジオ、ヘンリ・リ・タングですが、このスタジオのオーナーのヘンリは、とても活躍していました。

 

この時期、昔活躍していた往年の黒人のタップダンサー達がリバイバルして来ていて、中心になって再び活動をしだしていました。

 

ミュージカル「ブラック&ブルー」、映画「タップ」(グレゴリーハイン、サミ-デイビスJr.セビアングローバー主演)、

少し時代が後のミュージカル「ジェリーズ・ラスト・ジャム」、

映画「コットンクラブ」、

更に時代が進んで、ミュージカル「ブリング・ザ・ノイズ&ファンク」と黒人タップダンサー中心の時代が続きます。

 

これらに、スタジオのオーナーであるヘンリが振り付け師としてかなり関わったのです。

 

一度このスタジオから、先生を中心にグループでチャリティコンサート(ブロードウェイ界の大物ばかりが出演)に私も参加させて頂いたことがありました。

 

そのショーの練習を皆でしていて、振り付けにいいアイデアがなかった時、ひょっこりやってきたヘンリが、我々のやっている振りを見て、

あっと言う間に素晴らしい振り付けを仕上げてくれたことがありました。

 

その時は、なるほど、こういう人がプロの振付師なんだと心から感心したことを覚えています。

 

私自身も、その頃はタップやモダンダンスの振り付けをよく行っていました。

 

ある時期にこのスタジオに日本人が何人かやってくるようになりました。

 

私は日本人男性5名のタップダンス中心の小さなショーを作り、ホテルのイベントに出演したことがありました。

 

スタジオのトップの先生に、出来上がった作品を見てもらい、かなり気に入ってもらえました。

 

そのホテルのゲストは日本人が中心だったのですが、何かやりにくいなと言う印象がありました。

 

アメリカ人のゲストと日本人のゲストでは、反応がすごく違うからです。

 

アメリカ人は常に何か感じるものがあると、手を叩いたり、声を出したりして、何らかの反応をすぐに見せます。

 

私はその時までに一度も日本人の観客の前でパフォーマンスをしたことがありませんでした。

 

見せるものがよくなかったのなら仕方ありません。

 

しかし、拍手や笑いを期待したところに反応がないと、パフォーマーとしては非常にやりにくいものです。

 

ですからアメリカから来るパフォーマーは、始めにちょっとやりにくさを感じる所はあるかと思います・

 

でも、聞くと多くのパフォーマーたちは、日本を大好きになって母国へ帰るようです。


プロとしてのダンサーへの道

 

ダンスに関わる仕事以外の職業でも同じですが、学び始めてからプロとして生活していくまで、どのようにやっていくか、きちんと考えながら毎日を過ごすことが大切だと思います。

 

人はとかく、日常生活に追われたりすると、元々の目標や、やるべきことを忘れがちになりますが、それではプロとして生活するに至るまでの道は厳しいです。

 

まず、「アルバイト」の時間と「学ぶ」時間、もちろん学ぶ時間を中心にアルバイトを探します。

 

アルバイトは、学ぶため、生活するための必要経費を得るためのものです。

 

もちろん、アルバイトを通して、社会経験や人生経験としてたくさん学ぶことはありますが、

そこで満足して、元々の目標を見失っては良くありません。

 

学ぶことだけに集中できれば、素晴らしいですが、そのような恵まれた状況にいる人はあまり多くありません。

 

学び、出来れば奨学金をもらい(日本では難しいようです)、次に無料で行う小さな公演(自主公演なども含む)に出演しながら、人前で踊ること、作品や舞台を作ることに慣れていきます。

 

この辺りから、習う時間、自分で練習したり振り付けする時間、他の人達とリハーサルする時間、生活するためのアルバイトの時間、どれも欠かせないこの4つをいかにバランスよく上手くやっていくかが、将来を決めるポイントとなると思っていました。

 

ダンスの場合、学ぶべき時にしっかり学ばずに舞台出演などばかり行うと、基本が身に使いていないので、年を取ると仕事の幅が限られてきます。

 

役者は舞台に立てば立つほど成長できると思いますが、ダンサーはただ振り付けを踊るだけで、それまでに取得したテクニックで踊るので、その舞台ではそれほど成長は望めません。

 

基本をしっかり体に入れるには時間がかかります。

 

そして、舞台に立った分だけギャラが入る様になり、次にリハーサル代も舞台のギャラに加えて支払われるようになれば、プロという訳です(日本の場合は、リハーサル、出演、の両方にギャラが出ることは少ないらしいですが)。

 

また、常に出られるような舞台があればいいのですが、売れっ子の芸能人でもない限り、特に日本では難しいようです。舞台出演が時々あるという人は、出演がない時だけ働けるような融通の効くアルバイトをしなければなりません。

 

よくアルバイトのことを仕事と言う人がいますが、私の仕事はダンスであって、他の仕事はアルバイトです。

 

ここは考え方次第ですが、大事なことだと思います。

 

 

何故なら、ダンサーや俳優を目指して勉強をしている人たちの中で、アルバイトが本業になっていくケースをよく見たからです。


外国人として

 

ある時期、私は「ダンスアメリカ」というダンスグループに所属して、全米公演をしていました。

 

私の踊るナンバーのひとつにロックンロールの曲があり、パートナーは白人の美しい女性でした。

 

コスチュームは50年代風で、ツイストやジルバを入れたジャズダンス風のものです。

 

ある時、NYのマンハッタン島とスタッテン島を往復するフェリーの中で公演する機会がありました。

 

そのフェリーは自由の女神を横に見ながら進むもので、アメリカ国内からの観光客もたくさんいます。

 

その時フェリーではフェスティバルを行っていて、その一環として私達のダンスグループも参加していたのです。

 

50年代をアメリカで過ごした人々の前で、20代のアジア人の私がロックンロールを踊るのは、その時は恥ずかしいような場違いなような気持ちがして複雑でした。

 

また、NYでペアダンスを教え出して何年か経った頃も、個人レッスンでキューバ人の男性が私に「サルサを教えて欲しい」と訪ねて来ました。

 

この時も、サルサ(ラテンダンス)の本場、キューバの方に私がサルサを教えるということに、ロックンロールの時と同様の気持ちでした。

 

しかし今では、ここ日本で、私はヨーロッパ人にワルツを、アメリカ人にスウィングを、中南米人にラテンダンスを、アルゼンチン人にタンゴを教えるなどという機会が少なからずあります。

 

教えだして20年もたつと以前のような感覚はなく、ただ私の所へ来てくれてありがとうという気持ちだけで接しています。

 

ダンスを人に伝えるということが、私の天職であり喜びだと心から感じます。