1章 アメリカへ


羽ばたきたい!


高校まで岐阜県の関ヶ原という天下分け目の合戦で有名な町で生まれ育ちました。


関ヶ原から電車で通う進学校の高校に進んだ私は、2年生くらいから学校の授業に、

「これは将来役に立つのか」と疑問を持っていました。

クラスメート達はいい大学へ入る為に勉学に励んでいました。

私のこの頃の学校への持ち物はというと弁当だけ入っているカバンと部活のカバンでした。

本は学校の机の中に置き、宿題は休み時間に出来るだけしていました。

だから試験では何時も360 何人中、360何番でした。

でも私としては試験の結果など全く気にしていませんでした。

そして抜群に上手いわけでもなかったのですが、将来サッカー選手にでもなれたらいいなとくらい軽く思っていました。
大学進学のために京都に移りました。

 

この頃の私の日本の大学生の印象は、学生でも社会人でもない、社会へ入る前の息抜きそして準備期間だと思いました。

もちろん海外の大学生のように将来を目指して勉強に励んでいる学生も沢山いらっしゃいました。
大学で高校と同じくサッカー部に入った私は、

練習初日に、テレビで観たサッカーの高校全国大会に出てた人達も入って来たのを見て、

これはレギュラーになるだけでも大変だと思い頑張らねばという気持ちでした。


しかし、ある日下宿(当時4畳半、月1万円)の庭で

冗談半分で先輩の車の運転席に乗り込んだ(未だこの時は運転免許証は持っていません)私は

ブレーキとアクセルを間違え、あっという間に下宿の大家さんの車庫に突っ込み、

車庫は壊れ大家さんの車を傷つけてしまいました。

その車庫にぶつかったドカーンという大きな音を聞いて、下宿中の学生達が皆現れて非常に恥ずかしい思いをした事を覚えています。

それで次の日からサッカーの練習には行かなく、バイトの生活がはじまりました。

 

ある時、京都大学の学長の、「賢き者は読書と旅をする」という文を読みこれだと思いました。

あまり堂々と言えることではありませんが、授業料を払って貰っていた両親には大変申し訳なかったのですが、

私は全く学校に行かずに、事故の弁償をする為にバイト(週7日)をしながら、

ロックン・ロール、少林寺拳法、読書、そしてバイクで日本中を旅していました。

心の中では、外の世界に大きく羽ばたきたいという気持ちがいつもあり、これは高校生の頃からずっと燻っていたものでした。

当時私は将来なりたいものを紙に書いてアパートの壁に貼っていました。

そこには、「作家」と「ミュージカル」という単語が書いてありました。読書はしていましたが、

ミュージカルの意味も知らず、全く何の根拠も無く書いたのでしたが何年か経って実現する事になるとは。
大学生時代(殆ど学校へは行ってませんでしたが)私の関心のあるものは全てアメリカのものばかりでした。
そして20歳の時、単身アメリカへ渡りました。


アメリカ到着

アメリカに渡った私は、まずアメリカ中西部のコロラド州デンバーにある英語学校に半年通いました。
まあ、英語に慣れたらカリフォルニアにでも住んでみよう、

その間に自分の将来が見つかればいいな、と言う位に簡単に考えていました。
アメリカに渡る前に小田実の「何でも見てやろう」や片岡義男の「シスコで語ろう」を好きで読んでいた影響もあったと思います。
英語学校には、世界中から生徒が集まっていました。

思うに、世界中の人々や文化と接するには、英語学校が一番チャンスが多いのではないかと思います。
学校に入って幾日か経つと何人かのメキシコ人と友達になり、

二か月後にはそのメキシコ人達とアパートをシェアしていました。
全てが全く新しい経験ばかりの私は、ただなるがままに日々を過ごしていました。

よくまあメキシコ人達とお互い少ない英語の単語でコミュニケーションを取れていたものだと思います。
時々シェアしていた一人のメキシコ人が、夜にスペイン語のメキシコ放送を見ていました。
その番組をたまたま見た私ですが、そのことが後に意外な展開となりました。


ディスコダンス

メキシコ人のルームメイトが見ていたその番組は、メキシコで土曜日のゴールデンタイム夜7時から。
「FEBERE」(フィーバー)というダンスコンテスト番組でした。
1980年ですから、まだディスコは流行っていた時代です。
私はあまりディスコという場所には興味がありませんでした。
もちろん、ペアダンスを知るのはもっと後になりますから、

ハッスル(ディスコ全盛期の曲で踊るペアダンスです)の存在なども全く知りませんでした。
その番組をたまたま観た私は、ルームメートに「みんなあまり上手くないね」と軽くつぶやきました。

その返事は「じゃあヨシ、コンテストに出てみたら」でした。
元々その年の12月のクリスマスにルームメイトがメキシコへの帰省の時、私も一緒に遊びに行く予定だったので、
「OK,じゃあ出るよ」と軽い気持ちで言ってしまいました。
12月クリスマス前になって、学校がバケーションに入るとすぐ、予定通りルームメイトととメキシコに向かったのです


メキシコシティ

まずメキシコシティに着いて、友人の一人のうちにお世話になりました。
メキシコの街を見ていて、日本やアメリカ、ヨーロッパの国々と発展途上国の違いにまず驚きました。

貧富の差が大きいことでした。


私の友人たちは、アメリカに留学している位でしたから、メキシコではいわゆる「富裕層」の人達です。
その人達の家にはメイドが最低一人はいました。多くはインディオ(先住民)の人達でした。

こういう環境に、私は心に大きく感じるものがありました。
東南アジアを旅行した時も同じ光景をよく見ました。
ニューヨークで仲良くしていたフィリピンの友人たちも同じフィリピンでは富裕層だからニューヨークに来れたということでした。
短期間バイトをしてお金を貯めて海外旅行に行ける日本を始めとする先進国との違いをつくづく感じました。


メキシコについてからの食べ物としては、

それまで食べたことのなかったアボカドと、どんなものにも入れるチリソースが食卓にありました。
そして風呂に入る習慣がないこと。
また、どこにでもあるタコスもたべました。美味しかったのを覚えています。
ドイツならソーセージにあたる、一般的によく食べられるものです。


コンテスト

さて、本当にダンスコンテストに出ることなり、オーディションを受ける為、テレビ局に向かいました。
何人いたのか忘れましたが結構いたと思います。

その中から5人、この土曜日のテレビのコンテストに出る人を決めます。
オーディションの内容は、ディスコミュージックに合わせてただ踊るというものでした。
いつもディスコに行っている人でしたら、慣れたものだったと思いますが、

日本ではロックンロールでツイストを踊るくらいだけだったので、

兎に角ツイストを中心に少林寺拳法の動きなど何でも思いついた動きを適当に混ぜて踊りました。
全て終わると、「電話での結果待ち」とのことでした。


オーディションが終わって帰ろうとすると、一人の男性が私に声をかけてきました。
英語で「君はメキシコにいつまでいるの?」と。
メキシコに住んでいる日系人も少なからずいますが、私はそのように見えなかったのでしょう。
「約1か月」と答えたら、「もっといた方がいいよ。君は残ると思うから」と、
その時はさっぱり意味が分かりませんでした。
後でわかったことですが、私に声をかけて来たこの人は、ダンスコンテストの番組監督だったそうです。

それからすぐに、合格の連絡が来て、本番を迎えました。
友人が付いてきてくれましたが、お互い少ない英語の単語のやりとりをしながら、スペイン語で話すテレビ局の人との会話を通訳してくれました。
私はこの時も、音楽に合わせてツイストを中心に適当に踊りました。
5人が場所を入れ替わりながら、メインのカメラの前を中心に踊っていくというやり方でした。
日本語名の私の名前は、1字、または2字、間違えながら紹介されていました。
それは、テレビ放送の中の「予選」でした。
結果は一位で、次の土曜日に行われるコンテストに出ることになりました。
それまでの週の一位のダンサーたちが集まるコンテストです。
次のコンテストのために集まった時、コンテスト直前にLA出身だという黒人ダンサーが私に近寄ってきて、
「君のツイストはすごいけど、今回は俺が一位になる」とわざわざ言ってきました。
私は全然気にしなかった・・・と言うより、全く知らない土地で、全く新しい経験をしている私は、

その時をこなすのに必死で全く何も考える余裕がありませんでした。
ですので、このダンサーには何も言い返すことが出来ませんでした。
そして結果は、私が一位でした。

約1か月後の土曜日は最後のグランドチャンピオン大会で、これに出場することになりました。

しかもこの放送で番組終了です。
私もさすがにここで気合が入ってきて、コスチュームや振り付けを考え出しました。
また、毎回コンテストで勝った人は、

その司会者の一人である有名な美人タレントにキスをする習わしみたいなものがあったそうです。
それまでその司会者にキスをしなかった私に友人が「なぜヨシはキスをしないのか、次はすべきだ」としっかり念を押されました。

さすが最後のコンテストと言うこともあり、私も化粧室に連れていかれましたが、

スペイン語も分からず、どうしたらいいか分からなからず、メイクも何もせず本番を迎えました。
本番では、番組を盛り上げるためか、司会者はわざと名前を間違ったりしながら私を紹介し、From Tokyoとアナウンスしていました。
そして、結果はなんと私が1位、グランドチャンピオンになってしまいました。
キスのことを忘れていた私に、司会の女性の方から頬にキスをしてきました。
これに関しては、この女性に申し訳ないことをしたと思いました。
テレビ局を出た時、お客さんみんなからヨシ!ダンス!ヨシ!ダンス!の大きなコールで、

その時だけは、スター気分になり、また踊って見せました。

賞品は、洋服、バイク、ステレオ、アカプルコ旅行の他、色々ありました。
殆どは世話になった家族にあげ、

毎回テレビ局へついてきてくれた友人と一緒に、ビーチで有名なアカプルコ旅行をしました。


見つけた夢

そんなこんなで、予定では1か月間だったメキシコ滞在が、ダンスコンテストのために2か月になり、

2月になってからデンバーに戻りました。
ダンスコンテストをデンバーのメキシコ放送で見ていた友人からも、
たくさんの熱い歓迎を受けました。

 

それから少し経ったある日です。
私がテレビのチャンネルを回していた時、オードリー・ヘップバーンが河原の板の上で、男性と踊っている姿が映っていました。
私は、その踊る二人を食い入るように見ていました。
「これだ、僕が探して求めていたものは。この男性のようになりたい。」

そこで、私の人生は決まりました。

私の見た映画と言うのは、Funny Face(邦題で『パリの恋人』)、一緒に踊っていた男性はフレッド・アステア。
それからは、フレッド・アステアの出演する映画ばかりをいつも観ていました。
その頃通っていた英語学校が大学によって運営されていたので、その大学のジムに行ったときに、ダンス部員らしき人に、
「ダンサーになりたいのですが、どこかいい学校はありますか」と尋ねると、

「アルビン・エイリー」と答えてくれました。場所を聞くと、ニューヨーク、と言いました。

当時、アメリカと言えば西海岸だけに興味があった私は、ニューヨークという名前こそ聞いたことはあったものの、

全くどこにあってどんな所かも見当がつきませんでした。
それでもすぐに、ニューヨークに発ちました。