第5章 社交ダンスとの出会いと


ピエール先生の出会い

 

私はこれまでバレエ、ジャズ、タップなどの一人で踊るダンスを中心にやってきました。

 

でも何故か、ペアダンスには常に興味がありました。

 

と言うのも、ダンスを私が始めたきっかけになったフレッド・アステア(俳優・ダンサー)という人物は、時に一人で踊りますが、

多くの場合女性とスクリーンの中で踊っていたからです。

 

ですので、例えばバレエの公演を観にった時でも、私の目が輝くのは男女が組んで踊るパドドウのシーンでした。

 

そのような理由で、常に舞台でペアダンスを踊る「アメリカンボールルームシアター」(以下、ABrT)の名前だけは、知っていました。

私が後に所属することになる舞踊団です。


ある時、このABrTの主催で、一年間ボールルームを無料で教えてくれるクラスを作るということで、ダンサーのオーディションをするチラシを見ました。

 

私は本格的にペアダンスをやってみたこともなかっただけに、ただ興味本位で、

万が一受かっても断ればいいくらいのつもりで、オーディションに行きました。

 

オーディションでは、スウィング、ワルツ、バレエなどを踊らされした。

スウィングは少し知っていたのですが、ワルツは踊った経験がなく全く踊れませんでした。バレエは長い間やっていましたので問題ありませんでした。


オーディションが終わって帰る途中に、

ふと「このままミュージカルやダンスの公演をしていて(当時の私の主な活動です)、

将来はどうなるのだろう。ひょっとすると、このペアダンスとの出会いが私にとって、

この先大きなものとなるのではないか」と思いました。

 

 

ピエール先生との出会い

 

 

オーディションから何日か経って、合格の連絡が来ました。

私は色々考えて、まず一年は失業保険で生活しながら、社交ダンスを学ぼうと決心しました。

 

アメリカンボールルームインスティチュートという名の特別クラスで、毎日朝10時から午後2時まで、バレエクラスでウォームアップして、アメリカンスタイルボールルームを、ピエール・デュレインと彼のパートナーのイバン・マーソー氏から学びました。

 

そして夕方5時過ぎから夜10時過ぎまで、毎日社交ダンス教室に通いました。

 

ニューヨークは日本と違って、グループレッスン(アメリカンスタイル中心です)を行う教室が多くあります。

種目もたくさんあり、インストラクターも一流で、「フリーパス」を使って学びました。

 

さて、オーディション通過者のための特別クラスが始まってみると、周りのメンバーのレベルがあまりに高く、簡単にステップをこなしているように見えました。

 

話しを聞いてみると、10人ほどのメンバーの3分の2くらいのダンサー達は、既に社交ダンスのインストラクターだったのでした。

 

ソロダンスを長年やっていた私は、足形はすぐに出来ましたが、女性と組むと全くリードが出来ませんでした。

 

インストラクターではない残りのメンバーも、ミュージカル界などでかなり活躍してきたようで、組んで踊るダンスも慣れていました。

 

このような状況の中で、他のメンバーより遅れを取っている私は、プレッシャーを感じながら必死に学んでいました。

 

ただ、時々行われた「アダジオ」(リフト)のクラスだけは、

バレエ学校でパドドウ(バレエの中で男女が組んでリフトを取り入れて踊ること)を学んでいて好きだったこともあり、楽しんで誰よりも上手くこなしていた気がします。

 

月日が経って、いろいろな理由で半数以上のメンバーが辞めて行きましたが、新たにオーディションがあり新メンバーが入って来たりして1年が過ぎました。

 

ピエール先生との出会い③

 

クラスが始まって一年が経ちました。

試験も終わり、ピエールは私に「ニューヨークに住む日系人の人達にペアダンスを教えてみては」と提案してくれました。

 

私はそれまでタップダンスしか教える経験がなかったのでとても不安でしたが、

ピエールのパートナーであるイバン(Yvonne)先生が手伝ってくれることになり、

JSDCニューヨークの発足となりました。

 

同じ時期に、アメリカンボールルームシアター(ABrT)のオフィスに呼ばれ、

ABrTの団員として踊ってみないかという誘いが、ピエールとイバンからありました。

 

願ってもないこと、社交ダンスのマスター達と一緒にパフォーマンスが出来る嬉しさと不安が入り混じっていました。

でも私の中では、勉強が出来るという思いが一番でした。

 

そのABrTで誘いがあった直後に、私の頭に浮かんだ(想像した)のは、

新聞「Back Stage」に掲載された私の写真でした。

 

この新聞は、ニューヨーク中のショービジネスの雇用や公演情報、そして批評(厳しくて有名です)が、ギッシリの毎週発行の新聞です。

 

このBack StageDanceのページの批評の欄に、

私の踊っている写真が掲載されているのが、何故か頭にはっきりと浮かんだのでした。

そしてそれが後になって実現したのです。

 

ピエール先生との出会い

 

ABRTのオフィスに呼ばれてから間もなくたって、リハーサルが始まりました。


ボールルームの経験の浅い私は、全く大変でした。

 

マンボの作品では、組んで踊りながら袖から舞台へ出てくるのですが、

初めのうちは全く何のステップをやっているのかさっぱり解らず踊っていた状態でした。

 

私のカップルは、幸運にもピエールとイバンがソロで踊っていたアダジオ(リフトがメイン)の作品を担当することになりました。

 

団員の1人から「ヨシはラッキーだね。団員たちはピエールの1番お得意のリフトを習いたくてここに入っているところが多いからね。」と言われました。

責任重大だと思いました。

 

競技会の世界では、シアターアーツと呼ばれます。

もちろんリフトがメインのエキジビジョンの元世界チャンピオンんのピエール先生と同じ様にできるはずがありません。

 


リフト、リフトの毎日でした。とにかく女性を持ち上げることしか頭にありませんでし
た。

 

 

認定試験

 

 

ジャパンソーシャルダンスクラブNY(JSDCNY)は、初めはイバン先生に手伝って頂いていましたが、途中からは私一人で担当していました。

 

場所も「日系人会」から「DANCENEWYORK」スタジオの一室を借りて日曜日にクラスを行っていました。

段々とペアダンスの講師としても慣れてきてピエール先生のスタジオでも教えるようになり、他のペアダンススタジオでも講師として教えるようになっていました。

 

 

ある時ピエール先生から社交ダンスの免許を取ることを勧められました。

 

アメリカでは社交ダンスは楽しむものであって、試験など通常ありません。

日本のメダルテストやプロのレベル(級)分けはほかの国では見られません。

私が日本でアメリカンスタイルを広めたいことを先生は知っていたので、

日本では免許を持っていた方がいいだろうと。

さすが先生は日本の事情をよく知っていらっしゃいました。

 

この免許の試験の為、2年間世インターナショナルスタイルの社交ダンスの本をしっかり勉強しました。

 

ISTDというロンドンに本部がある組織の試験で,社交ダンスの資格試験では、

1番難しいと言われていました。

 

アメリカ内でも当時で、5人の公認の試験官しかいませんでした。

 

最初はアソシエイトというレベル(モダン)を受けました。

まず実技5種目、カップルで踊ります。

男性はリードしますから男性役だけでいいのですが、

女性は女性役、そして男性役もやらなければいけません。

10曲踊ることになります。

普段から男性役をやっていないとかなりの練習が必要になります。

 

実技が受かるとすぐ、試験管との質疑応答の試験です。

ここでは本を丸暗記して踊れると受かります。

 

それから時間を経てラテンも同じように受け、合格しました。

 

次のライセンシエイトのレベルの試験まで。

アソシエイトの資格を取ってから3年間の講師経験を終えてから受験できます。

 

このライセンシエイトの試験では、質疑応答は全くと言っていいほどできませんでした。

教科書には書いていない経験と知識から答えを出さないとけませんでした。

 

さすがの私もこの時は、お腹が痛くなりました。

試験管にもよると思いますが、この時の試験は私にはかなり厳しいものでした・

 

結果は合格ということで、何で受かったのかとホットした気分のもやもやした感じでした。

 

この勉強のお陰で私の社交ダンス知識はかなり着き、

講師としても自信がもてるようになりました。

また、日本へ帰国して何年か後にDVDをたくさん出版するようになるのですが、

役者としてCMなどをした時に撮る側と役者の両方の経験と、

社交ダンスに必要なテクニックについてを試験勉強で身についた事は

 

DVD撮影の時かなり役に立ちました。

 

 

TV映画「ファーイースト」

 

ある時、マネージャーの2人から電話あり、

日本人役で社交ダンスの講師ができるを人を探してるとの事。

 

この時のマネージャーというのは、個人で多くの役者を抱えていて、

その役者にあったオーデションが来たら役者に連絡して、

仕事が取れれば何%かの手数料をもらう人を指します。

 

1つのオーデションに何人ものマネージャーから電話が来るときもあります。

まだメールなどやっていない時代です。

 

エージェントとは組織でマネージャーの仕事をやっていて、

売れてる俳優はエージェントに所属していて大きな仕事のオーデションに行けます。

エージェントからマネージャーに依頼するときもよくあります。


マネージャーから内容を聞いて、この役は自分しかいないと思いました。

その同時私が知っている社交ダンスを教えてる日本人男性は、

私以外に1人しかいなく、その人は役者ではなかったし、

周りのアジア系男性の役者の中て社交ダンスを教えてる人は知りませんでした。

 

オーディションは結構長い台詞がありました。

私は長年NYに住んでいても余り英語は勉強しなかったのですが、

 

この役は私しかいないと思い込んでいたので、

諦めずに練習してからキャスティングの前で台詞を読みました。


話は変わりますが、一度以前にカンフー映画でマーシャルアーツ(空手などの武道)

できるアジア人男性のオーディションがありました。

 

私はアメリカに渡る前の京都時代に少林寺拳法の道場へ通っていて、 

 黒帯は持っていました。
それで日本から持っていった拳法着を来てオーディションに向かいました。

 

行ってみるとビックリ、50人くらいはいたでしょうか。

待ち合わせ室では、よくカンフー映画に出て来る剣をクルクル回したり、

棒を扱ったりしている者など、結構レベルが高いマーシャルアーツができる中国系の男性が多くいて、これは私はかなわないなと思いました。


が同時に「待てよ、これはあくまでも映画だから派手な動きを見せればいいのでは」とも思いました。

 

程なくして5人づつ呼ばれて舞台みたいな所で1人ずつ技を見せました。

1番目の中国系の男性は剣をクルクル回していかにもカンフーのエキスパートな感じ。

2番目はアメリカ白人男性で空手を習いだしたみたいな感じで、

よくまあこんな凄い連中の中でやれるなと思いました。

 

私の番が来ました。とにかく派手にやろうと考えた私は、ダンスと拳法を混ぜ合わせました。

回転を混ぜながら足を高く上げるキックを中心にやりました。

 

結果ラッキーな事にその5人の中では、私が残され長い台詞を渡されました。

が長い台詞をみた途端やる気がなくなり、こっそり帰ってしまいました。

これに関しては私は後で後悔しました。

長い台本がその時読めなくても、どんな役が回ってくるか分からないのを今まで経験してるのにチャンスをすっぽかすなんて。

 


話しは戻りますが、だからこの経験があったので、ここではこんなチャンスは逃しまいと思い、台詞もとにかく読みました。3日後には私に決まったと知らせが来ました。

 

TV映画「ファーイースト」

 

 

この撮影の設定は、戦時中の横須賀のオフィサーズクラブで、

日本人社交ダンス講師役の私がアメリカ人達にチャチャを教えています。

そこへ主役のアメリカン人カップルが入って来て皆に加わります。

 

この撮影でまず困った事は、普通社交ダンスで行うチャチャとは足型が反対に振付師が教えてくれました。振付師はペアダンスを知らないようでした。

 

できない事ではないのですが、やりにくいというよりも社交ダンスを人々に教えてる私が、

この間違ったやり方をやっていいのかと思いました。

 

この事についてベアダンスの知識についてはこの人が一番だと思っていた先生に聞いてみますと、やはり振り付け師に言うべきだと答えが返ってきました。

 

色々なバレエやミュージカルの舞台でも大抵の振付師はペアダンスを知らないので、

カップルが踊るシーンが出てきますと、

振付師がペアダンスを知っていればなあと思う時が多々ありました。

 

次の撮影の時に振付師に言いますと、不服な顔をしながらも振り付けを変えてくれました。

 

一番難しかったところは、私が皆の前でステップを言いながら音に合わせて役者の前まで動いて行き、その時耳をダンボのようにして役者の会話と音楽を聞きながらちょうどいいタイミングで「チャチャチャ」と言って2人の間を踊り過ぎて行くという振りをやった時です。

 

口で皆にダンスステップを言いながら、耳は音楽と役者の会話を聞いて、

足はチャチャを踏んでいる。

 

ミュージカル「バレンチノ」

 

日本帰国直前の2003年、

 ニューヨークでミュージカル「バレンチノ」の中の色々なペアダンスや

 タップダンスの振り付けを担当しました。

 

この振り付けの以来は、ピエール先生に来たものですが、

 振り付けが好きな私にピエール先生からやってみないかと言われ引き受けました。

 

なぜピエール先生にこの話が来たかというと、

このミュ―ジカルのディレクターであり、このショーでバレンチノ役をやっているチャールスという男性が、ピエール先生が出演してフレッドアステア賞を得た「グランドホテル」というブロードウエーのショーで一緒に出演していたからです。

 

このショーのタイトルにもなっているのが、

 サイレント時代の映画「黙示録の四騎士」(1921)をはじめとする数々の映画で、

 タンゴ音楽の奥深さやタンゴダンスの美しさを世界に知らしめた銀幕のスター、

 イタリア人俳優の「ルドルフ・バレンチノ」です。

 

アルゼンチンタンゴが、現在世界中で踊られるようになったのは

 彼が映画の中で見せたタンゴの魅力だったといっても過言ではありません。

 

あまりのインパクトに人々はその中のタンゴを 「バレンチノ・タンゴ」と読んだほどです。

 

ダンスだけではなく、音楽にも影響を与えました。

 

タンゴ音楽といえばコレ!と殆どの人々が口ずさむ曲「ラ・クンパルシータ」もこの映画でとても魅力的に使われたことにより、世界中で有名になったという説もあります。