第4章 ミュージカルや舞台

オーディションについて

ある時に放映されたTV番組で、ニューヨークのブロードウェーミュージカル「コーラスライン」に合格した日本人女性がインタビューに応えていました。その女性は、コーラスラインに合格するまでに、なんと1,000回のオーディションを受けたと言っていました。皆さんもご存知のとおり、ニューヨークのショービジネス界はブロードウェーを中心として、世界のトップと言っても過言ではないでしょう。世界中からダンサーをはじめ、エンターテイナーが集まってきます。そして様々なジャンルのオーディションが毎日たくさんの場所で行われています。私もニューヨーク時代によくオーディションに行きました。「バックステージ」という芸能新聞にはオーディション情報がたくさん掲載されていますし、自分が所属する事務所のマネージャーやエージェントから、また、同じ業界の仲間から、色々な手段でオーディションの情報が入ってきます。舞台(芝居、ダンス、ミュージカル)、TV、映画、CM、日本人(またはアジア人)モデルなど、一日に何本もオーディションに行くこともありました。殆どのオーディションの場合、8×10インチの大きな白黒の顔写真(裏に履歴書を添付)を持って行きます。履歴書には、髪の色、目の色、身長、体重、エイジレンジ(実際に見える年齢層、たとえば25歳~35歳など)を書きます。ひとつのオーディションに受からなかったら、すぐに頭を切り替えて次のオーディションに臨みます。ニューヨークでやっていくには精神的に強くないと仕事はつかめません。しかし、そこは実力の世界、努力すればするだけ、自分に返ってくるものは大きかったです。

オーディションの日々

ダンスシアターオブハーレムをやめてから、タップのスタジオへ毎日通うようになり、色々なオーディションを受けるようになりました。ダンスに関しては、その当時少しづつ流行り出したピップポップ系のダンス以外は、行ける限りのオーディションに行きました。冬になるとバレエのくるみ割り人形の舞台にも何年もいくつかのオーディションを受け、出させてもらいました。日本ほどではないですが、やはりダンスをする男性の数は女性に比べると圧倒的少ないのです。日本で男性でバレエが踊れれば仕事は幾らでもあると聞きました。それに比べて女性は、ダンサーとして食べていけるのは、本当に一握りでしょう。小さい時からダンスに明け暮れて食べたい物もできるだけ控えて頑張って練習を重ねてきてても、ダンスだけでは生活していけないという日本の状況は本当に残念に思います。

それからダンスの公演以外にもミュージカルのオーディションにも多く行きました。
 一番最初のミュージカルのオーディションはウエストサイドストーリーです。これは誰もが好きな名作です。ミュージカルのオーディションはダンスも歌もあります。私の場合はダンスがメインですから、ダンスをやって受かったあとに歌があります。ダンスは何人か一緒に踊りますし、私はダンサーですから一応自信はありますが、歌のオーディションは審査員の前で1人で大体得意な16小節を歌います。そのオーディションの時、私は上がっていたせいか、歌詞を間違えました。審査員の皆さんが優しかったのかもう1度歌わせてもらいましたが、たった16小節の歌詞を間違えた事に関しては私は結構がっかりしました。それからは、1度も歌詞を間違えることはありませんでした。ストーリーは、アメリカ人の白人若者達ジェット団とプエルト・リコ人若者達シャーク団との対立がいろいろ発展して行くストーリーです。私はアジア人ですが、東南 アジアの人ほど肌の色は濃くないので、シャーク団にもジェット団にもルックスが合わないので、その後もウエストサイドストーリーのオーディションには何回か行きましたが、ダンスの時、審査員は全く私の方は見ていなかった印象があります。コーラスラインもですが、ちゃんと料金をとる舞台では、アジア人男性(日本人みたいな)が出てこないストーリーでは、オーディションで受かることは殆ど難しいです。でも私は振付に関心があったので、受からないとわかっているオーディションでも行くようにしていました。初めて出演したミュージカルは  "オズの魔法使い" でした。有名な振付家が振り付けるようだったので、オーディションには、JAZZダンス界の大御所のルイジなどの一世代前の有名な先生達がずらりと顔を並べていました。私自身は余りその先生方を知らなかったので、全く気にならず緊張せずにオーディションを受けれました。
 そのプロダクションは、全米の大きな都市を1週間づつ廻る1年以上のツアーの予定でした。程なくして合格の電話が来て、1ヶ月のリハーサルの為、ロサンゼルスに向かいました。私は、それまでミュージカルらしいものは殆ど知らなく、合格通知が来てあわてて”オズの魔法使い”のDVDを借りてみました。キャストは半分がロスから、半分はNYからで、プロデューサーはロスからでした。ロスは、アメリカに来て最初に滞在した場所です。兎に角、カラッとした気候が最高で気温が高くてもそれ程暑さがきつくないのです。日本やNYにある湿気がないのです。ロスは広いので移動はバスを使います。リトル東京にもよく行きました。リハーサルも終わり、ツアーが、始まりました。
 

オズの魔法使い

"オズの魔法使い"の全米ツアーが始まりました。これが私にとって初めてのミュージカル出演です。キャストは40人はいたでしょうか。全米各州のメインシティを公演して回ります。日本語で巡業とでもいうのでしょうか、しかし実際、半分以上は遊んでいました。時々リハーサルがある時以外は、開演30(?)分前までに会場に入ればよかったのです。もし何かで誰かできない時は代役が用意してあります。フロリダの公演中は朝からディズニーワールドへ遊びに行き、暑いので顔や手足をしっかり焼いて帰って来て、さあ公演だ、という感じです。また、サンフランシスコへ行くと、いつも日本食が恋しくなるので、ジャパンタウンへまっしぐら。ニューオリンズでは、大好きな生ガキを食べに。早い時間に行くと安く立派なカキを黒人のお兄さんが殻を目の前で取ってくれます。ある日ニューオリンズの公演最終日を終えた後、キャストもスタッフも全員ある広い場所に呼ばれました。長いテーブルがいくつも置いてあり、その上には何やら赤い物体が一杯積み上げられていました。何とそれはザリガニだったのです。日本では、子供の時に川で捕まえたくらいで、ザリガニを食べるなんで夢にも思いませんでした。デーブルの横にはビールタンク。ザリガニの食べ方を習ってビールと一緒に思う存分ザリガニを堪能しました。それからザリガニは抵抗なしに時々美味しく食べていました。 

 NYではアカデミー賞などで使われる有名なラジオシティホールでの公演でした。私の当時のアパートからは歩いて10分もかかりませんでした。私がNYで最後に住んでいたマンハッタンプラザの前に住んでいたアパートは、色々な人種が集まっていて、ビルの中に常に人が出入りして毎晩パーティーのようでした。ある朝、二日酔いで起きると、何と開演の時刻でした。私は飛び起きて歯ブラシだけつかんで一目散にラジオシティホールまで走りました。もうショーは始まっていましたが、私が着いたときは丁度私達アンサンブルの出番5分前で、皆は「 おう、着いたか間にあったね。」とのんびり雑談してる感じで、私も何か気が抜けてしまったのを覚えています。このアメリカ人達は何故こんなに余裕があるというかのんびりしているのだろうと思ったことがしばしばありました。そしていつも真面目にやっているせいか何の罰もなくそのまま急いで着替えて舞台にあがりました。オズの魔法使いには、マンチキンという小人が何人も出てきます。公演最初から半年過ぎたころにリハーサルで滞在したロスで公演がありました。その途中の公演日に、映画に出ていた本当のマンチキン役の人達が来てました。勿論、招待だと思います。さすが、主役のドロシー役のジュディガーランドは亡くなっていたのでお見かけすることができませんでした。このツアーも最初の予定では、1年半でしたが半年、つまりロスの公演が最後で幕がおりました。シカゴ以外のアメリカの大きな都市はほぼ全部廻ったと思います。

メイム

オズの魔法使いのツアーから程なくして、また全米ツアーの "メイム "というミュージカルに受かりました。

 

今度は、殆ど毎日違う街へバスで移動するツアーでした。オズの魔法使いのように飛行機で移動したり、遊ぶ時間がたっぷりある公演とは一変してまさしく巡業でした。

 

この時は、私は役者として入りました。初めはアンサンブルもやっていましたが、舞台関係の組合から役者とアンサンブルは一緒にはできないと言って来て、私はアンサンブルからは外されました。ですから得意とするアンソンブルがするダンスの場面が無くなってしまいました。誰かが組合に言ったのかもしれません。アメリカの芸能の組合はしっかりしています。リハーサル時間も決まりがあります。だからディレクターがもっとリハーサルをやりたくても決められた時間内を過ぎると、メンバーにリハーサル代を別に支払わなければならないのです。会社の残業手当みたいなものです。それで私は、ダンスができなかったのは残念でしたが、余り得意でない歌の曲数が減ったのは有難かったです。 この"メイム"というミュージカルは、何年も前のプロードウェィミュージカルです。私は"イトウ"という日本人の執事の役でした。

 

ラッキーな事にソロで空手風な事をやるシーンがありました。アメリカに行く前に少林寺拳法をやっていたのが、こんなところで役立つとは思いませんでした。柔道着みたいなのを着て黒帯しめて、少林寺拳法とダンスを組み合わせて自分で振り付けをしました。これが思いのほか結構うけました。初めのうちは、プロデューサーは、舞台でしゃべっている英語がわからないという理由で私をくびにしようとしてたらしいのですが、何とか最後までやり通しました。いろいろな街で公演をやるたびに次の日にはその街の新聞に批評が出ます。いつも我々はチェックしていました。すると多くの新聞がほんの1行ですが、YOHI YANO扮する"ITO"は面白いなどといい批評がよく書かれていました。なので私もお客さんを笑わせようとアイデアをいつも練っていました。台詞はそんなに多くはなかったのですが、ディレクターに特訓を受けました。

このショーでは、カナダも何回か行きました。私だけがアメリカ国民ではなかったので,国境を通る度にパスポートを見せられたことを覚えています。又舞台装置を運んでいるトラックと一緒に移動している裏方さん達がマリファナ所持でポリスに連れて行かれ移動が遅れたこともありました。

 

冬時期のある公演が一番南にある暖かいフロリダであり、2日後が一番北の雪が降っていた街でした。気候の違いのせいか主役が風邪をひいてショーに出れなくなりました。このショーの場合、代役は2番目の準主役の人で、準主役の代役は3番目の準主役の人というように、ブロードウェィショーの様に代役がいつでもできる体制ではなく、はっきり言ってプロダクションはぎりぎりのところでやってたようでした。又、皆はそれほど代役の稽古はなかったので、主役が休んだ日は大変でした。何かの場合でアンソンブルで交代できる唯一の男性が、カーテンの後ろでセリフを小さな声で役者に聞こえるように読んでいるのです。この時のショーは悲惨だったと思います。普通ありえない事だと思いますが。

 

又、、NY公演はやはり1番緊張しました。なぜならNYTIMESの記事の批評が怖かったからです。

 ブロードウェイなどショーは、初日の公演について書かれるNYTIMESという新聞の記事によって公演続行が中止されるほどです。私が知ってるだけでも、幾ら公演前に評判が良くても、1週間以内に公演中止になったブロードウェイショーは幾つもありました。我々は結構NYの街の中心街から外れたところでやったせいか、私は記事を見れませんでした。主役は、昔のブロードウェイスターでしたから批評は出ていたと思います。そして無事に半年の"メイム"のツアーも終わりました。

ヨーロッパツアー1

アメリカではミュージカルが盛んです。劇団、市民ミュージカル、専門学校、ディナーシアター、クルーズ、ツアー、テーマパーク、そしてブロードウェイ。ダンサーで生活していこうとしたら、ミュージカルに出演するのが、一番安定した収入になります。

 

ある時期、私は、ディナーシアターでのミュージカル「王様と私」(3か月公演)と、ヨーロッパツアーでのミュージカル「アニーよ銃を取れ」(6か月公演)のオーディションに同時に合格しました。アジア人中心の「王様と私」は、今回参加しなくても、またいつかオーディションを受ければ合格するだろうという気持ちがあったことと、アメリカに行く前から世界中に行ってみたいという気持ちがあった私は、すぐにヨーロッパツアーを選びました。ヨーロッパにも3年位住みたいという気持ちもありました。

 

3週間のリハーサルはニューヨークで行われましたが、ヨーロッパツアーですので、アメリカのユニオン(組合)との関わりがないため、リハーサル時間や休憩時間は全てディレクターのやり方に合わせることになります。キャストは、アメリカ人以外に、イギリスから一人と、日本人の私でした。プロデューサーはドイツ人、ミュージカルディレクターはイギリス人、ミュージシャンは、アメリカ人、ドイツ人、イギリス人でした。ドイツ中心のツアーでしたので、マネージャーはドイツ人でした。このツアーは、人間関係で色々な事がありました。ショー自体は、毎日同じ演目ですから、それほど大きな問題はありませんでしたが、1日滞在して次の日に違う国へ長距離バスに乗り月日が経つと、なかなか我慢できないアメリカ人の性格が出てきて、キャスト同士のトラブルが何度かありました。そのため何人か途中で辞めてしまい、アメリカから新しいキャストが来るということが、しばしばありました。私は、とにかくヨーロッパを出来るだけ見てみたい、という気持ちだけがありましたので、人間関係のトラブルやショーに関しては、あまり気になりませんでした。バスの中では、NYの紀伊国屋で買った「地球の歩き方 ヨーロッパ編」をしっかりと読んで、次の街ではどこに行こうということばかり考えていました。

 

半年間で公演した国は、ドイツの殆ど全ての都市、オーストリア、デンマーク、ベルギー、オランダ、スイス、ルクセンブルグ、休みの日には、イギリスとフランスへ、残念ながらイタリアとスペインは行けませんでした。

ヨーロッパツアー2

「アニーよ銃を取れ」は、古くから続くブロードウェイミュージカルのひとつです。

私はアンソンブル(メインキャラクターではない)の一人でしたので、色々な役をしました。

主に行ったのは、インディアンの役でした。

日本人とエスキモーやアメリカンインディアンは顔立ちが似ていますから、私がインディアンのかつらを被ると本物っぽくなり過ぎて、ミュージカルコメディにはあまり合わないかなとも思いました。

そして、この時も私には、英語の歌は覚えるのにかなり時間が掛かりました。

ある年の大晦日をドイツの南の街で過ごすことになりました。

この日は、理由を忘れたのですが、メインの歌をドイツ語で歌うということになり、本番3日前くらいに歌詞を渡されました。

申し訳ないと思いながら、私は全て口パクだったと思います。

一年最後の日と言うことで、皆、少し浮かれ気分、舞台で色々ないたずらをしていました。

例えば、何かを食べるシーンでは、ふたを開けるとその役者が嫌いなものを入れておいてびっくりさせたり、お歯黒にして歌っているメンバーもいました。

私は、舞台の上で笑いをこらえるのに必死でした。

大晦日ということで、こういうことを色々なショーで行う習慣があるのかどうか、確認したかどうか忘れましたが、全然気にしないでみんな色々なことをやっていました。

そんな中、私も何かしようと思い、ショーが終わる最後のお辞儀で、インディアンのかつらを床に落として慌てるふりをして、お客様から笑いを取りました。

ショーの後、ニューヨークで知り合ったタップダンサーの家(ドイツ在住)にお邪魔しました。

ドイツでは、花火を上げてパーティで盛り上がるのが、大晦日の伝統のようで、この友人のうちでもゲストが5,6人来ていて、シャンペンとワインが何本も並んでいました。

本当にこんなに飲めるのだろうかと言う程のボトルが並んでいたのを覚えています。

10月にミュンヘンで行われる有名なオクトバーフェストは、大きなテントの中で大きなジョッキでビールを飲みました。日本では決して出てこないような大きなジョッキです。

とにかく、良くビールを飲むドイツでは、私が濁ったビールが好きでした。

そして、ドイツでは、メキシコのタコスや日本のタコ焼きを出しているようにどこにでもある屋台の店でソーセージとフライドポテトばかり食べていました。

また、色々な国の大学へ行って、学校の雰囲気を見て学食の食事を食べることを楽しみましたが、これと言ってあまり大きな違いはありませんでした。

ヨーロッパツアー中でもアメリカツアーと同じように、バレエスタジオを探して、出来るだけバレエのクラスだけは取るようにしました。

しかし、ヨーロッパツアーの場合、移動が多いのと、電話帳でダンススタジオを調べるとき、その国の言語で書いてあるので、読めないことがあり、レッスンを取るのが難しく、ダンステクニックをキープするのは難しい状況でした。

そういう点では、ニューヨークは世界一のエンターテイメントの街ですから、ダンサーにとっては学びの場所としては最高でしょう。

 

ヨーロッパへの思いと印象

ヨーロッパへの思いと印象についてです。
好奇心旺盛な私は、アメリカに渡る前は、北海道から沖縄までバイクで一人旅をよくしていました。10代終わりごろです。それでアメリカに渡ってからも、世界中を周ってみたいと思う願望がありました。有り難いことにダンスのお陰で色々な所に行くことが出
来ました。また、アメリカだけでなくヨーロッパでも住んでみたい望みもありました。
あるとき、ミュージカル「アニーよ銃を取れ」ヨーロッパツアーのオーディションに合
格し、半年間、西ヨーロッパの国々を周って思ったのが、芸術に対する関心度が非常に
高いと言うことでした。また、芸術家を育てることにすごく力を注いでいるのが分かり
ました。私はヨーロッパでどんな番組が放送されているのか興味があり、よくTVをホ
テルで見ていました。すると、なんとアメリカの番組が多いこと。なるほど、やはりエンターティメントはアメリカが一番だと思い、エンターテイメント業界にいた私は、ヨーロッパに住むという気持ちは一旦保留にして、そのままニューヨークに20年以上も住むことになりました。
 

オランダからイスラエル

半年のヨーロッパツアー(ミュージカル「アニーよ銃を取れ」)が終わりました。最後の公演を行ったオランダからNYまでの飛行機代は、自由に使えます。そのままNYへ帰りたい人、ヨーロッパに残りたい人、私はタップダンサーの友達がいるイスラエルに行きました。ツアー中はある程度の貯金が出来ます。具体的な収入源として、家賃収入があります。アメリカでは多くの若者は他の人と一緒にアパートの部屋をシェアしながら暮しています。それに加えて、ショービジネス関係の人は舞台のツアーなどで自分の家を空ける事が多いので、自分がいない期間は部屋を貸すこととなります。ツアー中は自分の部屋を人にまた貸していることが多いです。私もツアーでニューヨーク不在の際に、時々日本の人に自分の部屋を貸していました。なのでツアーに行くと、やり方次第で貯金が増えます。その為にツアーばかりしている人もいます。
オランダ(アムステルダム)からイスラエル(テレアビブ)までは約5時間弱かかりました。大変だったのはイスラエルの移民局です。空港にあんなに警察(兵隊)がいたのを見たのは初めてでした。パスポートを出すと、私のような外国人は離れた場所へ連れて行かれて質問攻めです。つまり身元がはっきりして、イスラエルへ来た目的を調べられます。その時の私は、ヨーロッパでミュージカルで公演して来た日本人で、イスラエル人の友達に会うためにイスラエルにやって来たという事を証明させなくてはいけないのです。パスポートを見せれば日本人とわかります。ヨーロッパで公演して来た事を証明する為に、私は公演中に使っていた化粧箱を見せました。釣り道具を入れるような20㎝~30㎝の箱で、表には公演したヨーロッパの国々の国旗のシールがたくさん貼ってあったのです。これなら大丈夫だろうと思ったのですが、十分ではなかったのです。いろいろ言い合っているうちに最後は踊ってみせました。これでやっと納得してもらいました。1時間くらいかかかったでしょうか。ちょっと不安のまま空港の出口で30分くらい待ってると友人夫妻が現れ、私はホッとしました。
また、このことは旅から戻りしばらく経ってから気がついたのですが、イスラエルもオランダ同様に、殆どのテレビの番組で画面の下の方に英語字幕が出ます。イスラエルではアラビア語も出ていました。これなら日本のように高い月謝を払って英語学校いかなくて済むのに・・と思いました。
イスラエルには2週間くらいいたのでしょうか。やはり宗教の強い国ですから、そういった建造物を見に行く機会がよくありました。また、同じ家族の中でも宗教心の度合いが人に寄って違う事も知りました。だから家ごとに食べるものも変わってくるのです。
イスラエルで有名な死海も行きました。海の中で何もつけないでもしっかりと体が浮くのです。
イスラエルでは、このように本当に文化の違いを大きく感じました。
ドイツで大晦日に訪ねたドイツ人もここイスラエルの友人もタップダンスの先生なので、1クラスずつ、ドイツとイスラエルで私にタップダンスのクラスを担当させてくれました。自惚れかもしれませんが、最先端のNYで活動をしていると、どこででもダンサーとしてやっていけると思っていました。そしてヨーロッパ、イスラエルと回った私は、又NYに戻りオーディションの日々を送ります。

ダーティダンシング

何年もの間、NYにてオーディションの日々を送りました。その中の一つで「ダーティダンシング」という映画が一時期流行りました。ちょっとしたラブストーリーもありますが、ダンスと一緒に展開していきます。後、続編である 「ダンシングハバナ」も公開されました。ダーティダンシングと云うだけあって、男女がセクシーっぽく踊るシーンが幾つかあります。この映画を舞台化しようと全米ツアーが企画されダンサーのオーディションがありました。男女5人ずつ選ばれるということでした。私は、ダンスでは自信はありましたが、ルックスでは余りに普通のアジア人過ぎるのではないかと思いながらもオーディションに行きました。その時私の髪型は、刈り上げのスポーツ刈り?だったような、全く目立つようではないジミな感じだったような気がします。しかしながらダンスが終わった後、結局5人の1人に選ばれました。他の4人の男性はそれはそれは派手なルックスでした。

ミュージカル「ダーティダンシング」全米ツアーに合格して喜んで詳細待ちをしていて1週間後.電話があり申し訳ないが今回はなかった事にしてほしいと。がっかりでしたが、オーディションにはそういう事は常につきものでしたからすぐ頭を切り替えて次の違うオーディションに行っていました。NYでやっていくには精神的に強くないと生き残れません。しかし、やった事は必ず何かの形で帰って来ます。ここNYならではと思います。練習の成果が何らかの形になって現れます。

NVのショービジネスの世界で結構私も鍛えられました。

 

日本でのミュージカル

日本では、今まで1つだけミュージカルに出演させて頂きました。今はありませんが、新宿コマ劇場のすぐそばにコマ劇場と同じ系列のシアターアップルという劇場がありました。舞台自体はなかなか広くて、よくダンスやミュージカルの公演がされていました。私が出たのは、「ハウツウデイト」というミュージカルでした。

 

主演は、鳳 蘭、堺正章、池畑慎之介(ピーター)の三人、そしてミュージカル業界で活躍していた本間兄弟も出演していました。面白いデートをしながら独身の男女が一緒になる話です。ダンスはタップダンスが中心に入っていました。私が日本で出た唯一の舞台でしたが、さすが、有名な三人が主演でしたので多くの芸能人が観客にいました。アメリカと日本の舞台の違いというと、多くの場合、日本は主演をテレビ等で有名な芸能人を使います。お客が入るからです。NYのブロードウェイやロンドンのウエストエンドのような専門のブミュージカル劇場がある国以外は、ミュージカルに対しての認識が低いので、どの国も同じ状況だと思います。

 

ブロードウェイやウエストエンドは完全な実力主義です。年齢も関係ありません。ルックスは化粧でどうにでもなります。アメリカは組合がしっかりしていますから、実力のある人達は大抵組合に入っていますので、会社で働いているのと同じ状況です。

 

リハーサルは日曜休みに1時間ごとに5分の休憩が入る106時に行われ、リハーサルの時から毎週給料が出ますし保険にも加入されます。ですが、組合以外の舞台、ヨーロッパツアーなどは別です。何時から始まろうと何時間リハーサルがあろうと給料には関係ありません。日本はリハーサルも本番も一緒にギャラが出ます。リハーサル途中で何らかの理由で出られなくなった人はギャラなしになります。ハウツウデイトのリハーサルは約3週間半で、本番が2週間くらいだったでしょうか。何とか無事に終えて私はNYに戻りました。ダンスキャプテンという肩書きは頂いていましたが、日本のダンス界は全く知らなかったので、余計な気を使っていました。20代、30代をアメリカで過ごした私は日本の常識みたいなものが、日本人でありながら結構欠けていることもよくわかりました。

 

しかし、この経験で日本の舞台界を垣間見ることができました。2004年に日本に移って間もなく劇団四季に講師として入ったので、もう10年近く四季に通っている事になります。日本のミュージカル界は主役級も含めて、宝塚か劇団四季出身者が多くを占めてるようです。

下駄タップとメキシコ

ある時、メキシコシティフェスティバルで、ジャパンフェスティバルが開催されるにあたって、一緒に行かないかと言う話がありました。

メキシコシティは、NYへ行く前に行っていただけでしたので、久しぶりです。

日本語のオペラで舞台に出演した時にお世話になったオペラの先生と、元芸者さんで、その生涯が本にも舞台にもなった有名な先生と3人でNYからメキシコへ飛びました。

昼の部は現地在住の日本人が色々披露し、私達NY組は夜の部に出演しました。

オペラの先生は、日本語で「さくら」などの歌を披露し、元芸者の先生は12カ月分のそれぞれの月に合う着物を全てNYから運び、メキシコレディ12人にそれを着せてファッションショーをやりました。

私はと言うと、会津磐梯山を歌いながら、下駄タップを披露しました。

短期間で着物の先生に黒田節を習い、羽織袴などをお借りし、ひょっとこの化粧をして、着物をまくって、ステテコを履いての出演です。

結構うけたと思います。

この会津磐梯山下駄タップは、NYでも歌の発表会の時にやって好評で、日本人学校にも呼ばれて、子供たちの前でも披露したことがあります。

ある時期、芸能人がディナーショーをするように、私も自分のワンマンショーが出来ないかと思っていた時があります。

特にタップでは、普通にタップシューズ意外に、下駄タップ、ローラースケート(フレッド・アステアやジーン・ケリー達が映画でやっていました)、そしてトゥタップ、これはバレリーナ達が履くトゥシューズで立ってタップをやるというものです。

ブロードウェイミュージカル「クレージーフォーユー」」の中でも少し観ることが出来ます。

バレエ学校時代に私もトゥシューズを履いて練習したことがあるので、挑戦してみました。

しかし、自分でトゥシューズに上手く金具を付けることが出来ず、トゥタップは断念しました。

話は変わって、他のダンスグループやミュージカルでテキサス州に行った時、国境を歩いて端を渡ってメキシコに入ったことが二度あります。

アメリカ側はエルパソと言う街で、その国境付近でさえアメリカ側とメキシコ側の街の雰囲気がかなり違うのです。

貧富の差が明らかでした。

以前、ある兄妹がメキシコからアメリカに国境を不法で渡る映画を見たことがあります。

確かタイトルは「El Nolte」だったと思います。

北(アメリカ)へと言う意味だと思います。

国境にたどり着くまでに内戦に巻き込まれたり、国境の山の中のコンクリートの包みたいな中を通るネズミの大群に襲われたりして、散々な目に合ってアメリカに入ります。

アメリカに入ったら、また色々な試練が待っているという大変なストーリーです。

国境へ来る度に、この映画を思い出します。

実際、私がNYにいた時も、大変な経験をして不法でアメリカに入って来ている人はたくさんいると聞きました。

日本レストランでアルバイトをしていると、大抵、皿洗いを始め、キッチンの仕事には何人かメキシカンが関わっていました。

一緒に働いていると、スペイン語の単語がいくつか自然に覚えられます。

メキシカンは皆さん明るいです。

外国人として

私がまだ20代の頃、アメリカでプロダンサーとして「ダンスアメリカ」というダンスグループに所属して、全米公演をしていたことがありました。私の踊るナンバーのひとつにロックンロールの曲があり、パートナーは白人の美しい女性でした。コスチュームは50年代風で、ツイストやジルバを入れたジャズダンス風のものです。ある時、NYのマンハッタン島とスタッテン島を往復するフェリーの中で公演する機会がありました。そのフェリーは自由の女神を横に見ながら進むもので、アメリカ国内からの観光客もたくさんいます。その時フェリーではフェスティバルを行っていて、その一環として私達のダンスグループも参加していたのです。50年代をアメリカで過ごした人々の前で、20代のアジア人の私がロックンロールを踊るのは、恥ずかしいような場違いなような気持ちがして複雑でした。

   また、NYでペアダンスを教え出して何年か経った頃も、個人レッスンでキューバ人の男性が私に「サルサを教えて欲しい」と訪ねて来ました。この時も、サルサ(ラテンダンス)の本場、キューバの方に私がサルサを教えるということに、ロックンロールの時と同様の気持ちでした。しかし今では、ここ日本で、私はヨーロッパ人にワルツを、アメリカ人にスウィングを、アルゼンチン人にタンゴを教えるなどという機会が少なからずあります。今では、以前のような感覚はなく、ただ私の所へ来てくれてありがとうという気持ちだけで接しています。

ダンスを人に伝えるということが、私の天職であり喜びだと心から感じます。

人前で踊るチャンス

 

私自身、NYでダンサー、パフォーマーをやっていた頃は、多くの舞台、TV,映画に出るチャンスに恵まれ、ダンスツアーなどで世界中の色々な国も周りました。舞台役者は3日やったらやめられないとよく言われますが、お客さんの前で発表して称賛されることは本当に嬉しいものです。緊張感を味わいながら踊った後の観からの拍手は、言葉には表せない快感です。

JSDCでもアニュアル、サマー、ハロウィン、サロンde、クリスマスと色々なパーティで生徒さん同士(カップル、グループ共)、講師と組んだりしてデモンストレーションを行っています。参加するには、中級や上級でなくても自分のレベルで踊ることが出来ます。以前、NYで教えていた生徒さんのおひとりに「私はとてもあがり症なので、とても人の前では踊れません」とずっとデモの参加をお断りになった方がいらっしゃいましたが、機会があり、一度グループのデモに出演されました。その後は、パートナーを見つけられ、いつもペアで、そしてグループで毎回デモに出演されるようになりました。

デモに出演するということは、ひとつのダンスをしっかりと何度も繰り返し練習しますので、その種目の上達は確実です。そして、もちろんその後の自信につながります。皆さんも勇気を出して、是非人の前で踊ってみてください。

人種差別


 今回は人種差別についてです。
 映画の「アラバマ物語」をDVDで見たことがあります。
アメリカ南部で無実の罪を着せれた黒人男性の無実を、グレゴリーペック演じる弁護士が裁判で証明しようとするストーリーを中心に、家族愛を描いている白黒映画(昔の時代 の)名作です。
同じグレゴリーペック主演の「紳士協定」は、ユダヤ人に対する差別を通して描かれる男女の恋愛物語。
その時の私は、黒人の人種差別は感じてましたが、ユダヤ人に対しての人種差別はあまり知りませんでした。 ただ、そんな私ですら、暑い中でも黒のスーツと白いシャツを着て髭を伸ばして黒い帽
子をかぶっていた人達は異様に見え、全く違う人種だと感じていました。
 私は、ニューヨークに住んでいた頃の10年近くの間を、殆ど毎日黒人のダンス学校へ通って過ごしました。
そのような環境にいたため、黒人の人達が抱えている「(白人の人から受ける)人種差別意識」をよく聞かされていました。
肌の色から言うと、日本人を含めたアジア人は一般に「黄色人種」と言われていますから、黒人の人たちと同じカラーピープル(有色人種)の中に入ります。そのためか、黒人の人達にとっては、白人の人達よりもアジア人を受け入れやすいように感じました。
ブロードウェイでミュージカルなどに出演している黒人ダンサーの友達がニューヨークでアパートを探している時も、「俺は黒人というだけでアパートを貸さない大家がいる!」と憤慨していたのを覚えています。
“人種のるつぼ”と言われ「自由きまま」なイメージのニューヨークでさえこうでした。
また、私自身も、ミュージカルで半年の全米ツアーをしていた時、白人の人達から人種差別のようなものを何度か感じました。
映画の話に戻ります。
グレゴリーペック演じる弁護士は、裁判のシーンで、人間がいかに平等かについてハッ
 キリと言いました。しかし、裁判の結果は、残念ながら有罪。その後に、裁判が終わると一階にいる白人の人達はすぐに皆帰ってしまうのですが、一階に座らせて貰えず二階から傍聴していた黒人の人達全員が、 1人最後に法廷を出ていくグレゴリーペックの姿をじっと見ているシーンがあり、とても印象的でした。
 黒人の知人の話をします。
彼は当時、NYで“デジャブダンスカンパニー”というモダンダンス団のディレクターをしていました。ある時、その団体がオーディションを行いました。
 それは、パラディアムと呼ばれる、昔は凄く流行った大きなクラブで行われ、
色々な有名な芸能人がたくさん出るチャリティショーの中で行われたオーディションでした。
 目的は、あるバレエの作品を踊るダンサーを選ぶこと。
 そのバレエは、映画「愛と悲しみのボレロ」にも出演した、
ベルギーにある“20世紀バレエ団”の監督であるモーリス・ベジャールが作った『ボレ ロ』という作品でした。主役1人が丸い舞台の上で踊り、男性ばかりの12人と28人の二つの輪が周りで踊るとい
う、大変迫力のある有名な作品です。私は、以前その映画にも出演されたジョルジュドンのNY公演を見たことがありました。 
オーディションにはモダンやバレエダンサーがたくさん来ていました。
第1、第2..第3.とオーディションがあり、私はラッキーにも内側の12人の中に選ばれました。
名作『ボレロ』を踊れる事は光栄な事でした。振り付けのため、ベジャール氏のアシスタントがベルギーから来ていたのですが、彼はなかなか厳しく、私は何回も直されました。その公演で踊る主役は、パリオベラ座のブリマでもあった有名なダンサー、シルビア・ギレムでした。
話は戻りますが、この主催者であった“デジャブカンパニー”の監督が、とある有名なモダンダンスカンパニーのメンバーであった頃に南アフリカの公演に行ったそうです。
あるとき、白人男性のダンサーと一緒に道を歩いていると、不幸にも事故にあい、2人とも車にはねられました。そのとき、一緒にいた白人の男性だけが、すぐに病院へ運ばれたのです。 黒人ということだけで、彼は、そのまま長い時間事故の場所に取り残され、治療を受けたのは、ずっと後でした。そのため、『ボレロ』のオーディション時、彼は、車いすに乗っていました。
 何年か経って、当時私の住んでたマンハッタンプラザというビルの近くで、偶然彼と会
いました。その時は、ほんの挨拶程度しかしませんでしたが、真っ先に彼のストーリーが頭に浮か
んだことを覚えています。

文化・芸術に対するサポート

私は20歳でアメリカに渡り、20代30代をNYを中心にダンスと共に過ごしました
。始めに、アルビン・エイリーというモダンダンスの学校で2年半学び、その後、オーディションにより奨学金を受けながら、ダンスシアターオブハーレムというバレエ学校
に3年半通いました。3年半のうち、始めの2年を過ぎた頃は、カンパニー(舞踊団)に
入団することが出来、給料をもらい始めました。日頃のクラスで使用するバレエシュー
ズも無料で学校から提供されました。

その後、タップダンスや、芝居、歌などの学校も行きましたが、次のステップとして、
社交ダンス(アメリカンスタイル)やリフトの学校にも通いました。ここでもオーディ
ションにより奨学金を受けることが出来ました。その間、色々なダンスグループや芝居
、ミュージカルで公演しましたが、キャリア初期の頃「ギャラなし」のことはあっても
、自分で金銭的な負担をすることは一度もありませんでした。もちろん、ギャラなしか
ら、段々とリハーサル費や公演費をもらうようになり、プロとしてギャラを頂くように
なりました。

帰国して日本のダンス関係の方に話を聞くと、発表会はもちろん、セミプロの公演にも
出演者に「ノルマ」というものがあり、ダンサー達は、かなりのチケット(多い場合は
20枚など!)を持たされるそうです。家族や友達にチケットを買ってもらっても売り切
れない場合は、自分で負担をするそうです。バイト代が全て飛んでしまうという話も良
く聞きます。また、割と大きなバレエ団などでも女性はギャラがないということは多い
と聞きます。そのような負担がありながらも、ダンスを続けたいと言う気持ちは素晴ら
しいとも思いますが、何とか状況が良くならないものか、といつも感じてもいます。

このようなお話をすると、まるで、アメリカのダンス学校やダンス業界は日本に比べて
景気がいいようですが、決してそうではありません。日本との大きな違いは、多くの芸
術団体・スクールが、国や市、企業、そして一般の方からの寄付金に支えられているこ
とです。才能ある若者を一人でも多く育てたいという思いに賛同する人々が、アメリカ
の文化・芸術全体を大きく支えています。私が通った全ての学校でも、ホームページで
は必ず「Donation(寄付)」の案内があり、いつでも誰でも参加出来るようになってい
ます。金銭的な寄付が難しい人でも、時間の寄付、労働力の寄付、応援メッセージを送
る、など、個人個人が出来ることで貢献をすることが、社会的な義務であるという考え
がアメリカでは強いです。

夢と感動を与える活動を、国や市、企業、そして一般の方が積極的に応援するようにな
ることが、私の願いでもあり、日本の文化・芸術レベル向上の鍵だと思います。

 


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