第3章 ダンス修行②

バレエスクール

ダンスシアターオブハーレムは、バレエを中心に公演するダンスカンパニーですが、附属の学校もあり、そこで毎日レッスンを取りました。スカラーシップをいただいていたので授業料は払わなくてすみました。

アルビン・エイリーの時と同じく、月曜から金曜の朝九時からクラシックバレエのクラスがあります。

これもアルビンの時と同様、服装は、男性は白いTシャツと黒いタイツ、白いバレエシューズです。

その後は、男性だけのメンズクラスやタップクラス(どういう訳かバレエ学校にタップクラスがありました)、リフトが入るパ・ドォ・ドゥクラスや音楽や歴史クラス(眠たくなるのでよくさぼっていました)、アフリカンダンスなどの特別クラス、時間のある時は、夕方のキッズクラスも取っていました。キッズクラスと言っても、学べることが大変多くありました。

2年ほど経ってから、ワークショップアンソンブルという、小学校やニューヨーク近郊で公演するグループに入れてもらえました。

この時から、バレエシューズと少ないですが給料も支給されることになりました。

ニューヨークが子供への文化芸術紹介を積極的に行っていることもあり、我々は時々朝早くから6人くらい編成で2グループになって、小学校めぐりをしました。40分位のバレエ中心のパフォーマンスをやり、その後舞台の前方端に腰かけて、小学生たちとQ&Aの質問コーナーを行います。

まずは、我々一人ずつが出身地を言いますが、色々な国からのメンバーがいました。

イギリス、カナダ、メキシコ、バハマ、キューバ、タヒチ、トリダード・トバゴなどの出身も何人かいました。。アジア人は私一人でした。この質問コーナーではアメリカ人の子供が何をどのように考えているのかよく分かり、とても興味深い時間でした。そして次の学校で同じことを繰り返します。

小学校のオウディトリィウム(どの小学校にも劇場があり、ジム(体育館)は別にありました)に着くと、男性は床にリノリウムを敷いてテープを貼り、バレエ用の床を作ります。

女性は、トゥシューズを履くこともあり、自分の身の回りの準備やウォームアップに入ります。

野外の公演も時々ありました。

記憶にある野外公演のひとつは、男性が赤ふんどしのようなものを履いて、帽子をかぶったのか手袋をしたのか忘れましたが、とにかく肌を見せるものでした。

筋肉隆々の黒人たちの中で、当時は体が細く白い肌の私は、これはまずいと思い、前日が休日だとセントラルパークに体を焼きに行きました。

しかし、全く効果はなく、考えるのはあきらめて舞台だけをこなしました。

オペラのポギー&ベスや、黒人の話の舞台には、やはり色の白いアジア人の私は入れてもらえませんでした。

このダンスシアターオブハーレムに3年半いて、次にタップダンスのスタジオに毎日通うようになります。

ニューヨークにはたくさんのダンススタジオがあるのに、また次も、黒人のヘンリーリタングというタップスタジオの行くことになるのです。

何故3つも続けて黒人のダンススクールに行くことになるのか、これに関しては未だに謎です。

前世で私は黒人のダンサーだったのかもしれないと時々考えます。

ダンススクールを経験して

アルビンエイリーに通っているときは、アルビンエイリーダンスカンパニー(舞踊団)で踊ることを目指し、ハーレムのスクールの時はダンスシアターオブハーレム(舞踊団)で踊ることを目指していたのですが、結局はどちらも入らず、この二か所は生徒として6年間通いました。後半の2年半はいろいろな舞台で踊らさせていただきました。

これでダンスの基礎が一応体に入ったことになります。この後からは応用です。

もちろんバレエはダンスの基本ですから、近くのバレエスタジオには毎朝通いました。

これからは身に付いたダンスの基礎を活かして色々な舞台を経験していくことになります。

でも、タップをもっと上達させたかったので、ヘンリ・リ・タングというタップダンススタジオへ毎日夕方から通うことにしました。また、ミュージカルの世界にも興味があったので、歌の個人レッスンや役者の学校のクラスも取り始めました。

日本の大学時代(殆ど学校へは行っていませんが)に、将来やりたいこと、なりたい人物像を描いて壁に貼っていたことがありました。その中の二つだけは30年以上たった今でも覚えています。

作家とミュージカル俳優です。国語が苦手な私でしたが、ぐうたらな作家生活(実際は全く違うと思いますが、若い自分はそう思い込んでいました)に憧れていたのだと思います。

ミュージカルへの思いについては、さっぱり自分でも分かりません。アメリカに来るまでは、かの有名なウエストサイドストーリーでさえ、もちろん観たことなく、名前すら知らなかった私です。ミュージカルという単語に漠然と憧れるものがあったのでしょうか。

タップダンススタジオ

タップスタジオ、ヘンリ・リ・タングですが、このスタジオのオーナーの「ヘンリー」は、とても活躍していました。この時期、昔活躍していた往年の黒人のタップダンサー達がリバイバルして来ていて、中心になって再び活動をしだしていました。ミュージカル「ブラック&ブルー」、映画「タップ」(グレゴリーハイン、サミ-デイビスJr.、セビアングローバー主演)、少し時代が後のミュージカル「ジェリーズ・ラスト・ジャム」、映画「コットンクラブ」、更に時代が進んで、ミュージカル「ブリング・ザ・ノイズ&ファンク」と黒人タップダンサー中心の時代が続きます。

これらに、スタジオのオーナーであるヘンリーが振り付け師としてかなり関わったのです。

一度このスタジオから、先生を中心にグループでチャリティコンサート(ブロードウェイ界の大物ばかりが出演)に私も参加させて頂いたことがありました。そのショーの練習を皆でしていて、振り付けにいいアイデアがなかった時、ひょっこりやってきたヘンリーが、我々のやっている振りを見て、あっと言う間に素晴らしい振り付けを仕上げてくれたことがありました。その時は、なるほど、こういう人がプロの振り付け師なんだと心から感心したことを覚えています。私自身も、その頃はタップやモダンダンスの振り付けをよく行っていました。今も5曲くらいの振り付けは常に考えています。

ある時期にこのスタジオに日本人が何人かやってくるようになりました。私は日本人男性5名のタップダンス中心の小さなショーを作り、ホテルのイベントに出演したことがありました。スタジオのトップの先生に、出来上がった作品を見てもらいましたが、かなり気に入ってもらえたようでした。そのホテルのゲストは日本人が中心だったのですが、何かやりにくいなと言う印象がありました。

アメリカ人のゲストと日本人のゲストでは、反応がすごく違うからです。

アメリカ人は常に何か感じるものが見れると、手を叩いてくれたり、声を出したりして、何らかの反応をすぐに見せます。

私はその時までに一度も日本人の観客の前でパフォーマンスをしたことがありませんでした。

見せるものがよくなかったのなら仕方ありません。しかし、拍手や笑いを期待したところに反応がないと、パフォーマーとしては非常にやりにくいものです。今では、ここ日本で舞台を見ることに慣れました。

アメリカから来るパフォーマーは、始めにちょっとやりにくさを感じる所はあるでしょう。

でも、聞くと多くのパフォーマーたちは、日本を大好きになって母国へ帰るようです。

 

プロとしてのダンサーへの道

ダンスに関わる仕事以外の職業でも同じですが、学び始めてからプロとして生活していくまで、どのようにやっていくか、きちんと考えながら毎日を過ごすことが大切だと思います。

人はとかく、日常生活に追われたりすると、元々の目標や、やるべきことを忘れがちになりますが、それではプロとして生活するに至るまでの道は厳しいです。

まず、「アルバイト」の時間と「学ぶ」時間、もちろん学ぶ時間を中心にアルバイトを探します。

アルバイトは、学ぶため、生活するための必要経費を得るためのものです。

もちろん、アルバイトを通して、社会経験や人生経験としてたくさん学ぶことはありますが、

そこで満足して、元々の目標を見失っては良くありません。

学ぶことだけに集中できれば、素晴らしいですが、そのような恵まれた状況にいる人はあまり多くありません。まずは、自費で学び、そして奨学金をもらい(日本では難しいようです)、次に無料で行う小さな公演(自主公演なども含む)に出演しながら、人前で踊ること、作品や舞台を作ることに慣れていきます。

この辺りから、習う時間、自分で練習したり振り付けする時間、他の人達とリハーサルする時間、生活するためのアルバイトの時間、どれも欠かせないこの4つをいかにバランスよく上手くやっていくかが、将来を決めるポイントとなると思っていました。ダンスの場合、学ぶべき時にしっかり学ばずに舞台出演などばかり行うと、基本が身に使いていないので、年を取ると仕事の幅が限られてきます。例えば、役者は舞台に立てば立つほど成長できると思いますが、ダンサーはただ振り付けを踊るだけで、それまでに取得したテクニックで踊るので、その舞台ではそれほど成長は望めません。基本をしっかり体に入れるには時間がかかります。

そして、舞台に立った分だけギャラが入る様になり、次にリハーサル代も舞台のギャラに加えて支払われるようになれば、プロという訳です(日本の場合は、リハーサル、出演、の両方にギャラが出ることは少ないらしいですが)。また、常に出られるような舞台があればいいのですが、売れっ子の芸能人でもない限り、特に日本では難しいようです。舞台出演が時々あるという人は、出演がない時だけ働けるような融通の効くアルバイトをしなければなりません。

よくアルバイトのことを仕事と言う人がいますが、私の仕事はダンスであって、他の仕事はアルバイトです。

ここは考え方次第ですが、大事なことだと思います。

何故なら、ダンサーや俳優を目指して勉強をしている人たちの中で、アルバイトが本業になっていくケースをよく見たからです。

 

外国人として

ある時期、私は「ダンスアメリカ」というダンスグループに所属して、全米公演をしていました。私の踊るナンバーのひとつにロックンロールの曲があり、パートナーは白人の美しい女性でした。コスチュームは50年代風で、ツイストやジルバを入れたジャズダンス風のものです。ある時、NYのマンハッタン島とスタッテン島を往復するフェリーの中で公演する機会がありました。そのフェリーは自由の女神を横に見ながら進むもので、アメリカ国内からの観光客もたくさんいます。その時フェリーではフェスティバルを行っていて、その一環として私達のダンスグループも参加していたのです。50年代をアメリカで過ごした人々の前で、20代のアジア人の私がロックンロールを踊るのは、恥ずかしいような場違いなような気持ちがして複雑でした。

   また、NYでペアダンスを教え出して何年か経った頃も、個人レッスンでキューバ人の男性が私に「サルサを教えて欲しい」と訪ねて来ました。この時も、サルサ(ラテンダンス)の本場、キューバの方に私がサルサを教えるということに、ロックンロールの時と同様の気持ちでした。しかし今では、ここ日本で、私はヨーロッパ人にワルツを、アメリカ人にスウィングを、アルゼンチン人にタンゴを教えるなどという機会が少なからずあります。今では、以前のような感覚はなく、ただ私の所へ来てくれてありがとうという気持ちだけで接しています。

ダンスを人に伝えるということが、私の天職であり喜びだと心から感じます。

 


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