2章 NYダンス修行①

ニューヨークでの出発

アパートに住みだしてから、ダンスとアルバイトの日々が始まりました。

ダンススクールは、デンバー滞在中にダンスを習っている生徒さんに聞いたアルビンエイリーアメリカンダンスセンターというダンススクールで、習い始めるまでこのスクールのことは全く知りませんでした。なのでどんなダンスをするかもわかりませんでした。ただいい学校でダンスを習いたかったのです。アルバイトはダンススクールの近くの日本のラーメン屋さんでした。両方ともニューヨーク、マンハッタンの真ん中に位置するブロードウェィ劇場街にありました。

半年間は、かなりハードスケジュールでした。

週5日午前中にダンスクラス、その後すぐにアルバイト、またダンスクラス、そして夜の11時ごろまでアルバイト、土曜日は違うダンススタジオでタップとバレエなどのレッスン受講、唯一アルバイトのない土曜日の夜はアルビンエイリー舞踊団を中心に舞台を見るか、TVで日本語放送を見ながらルームメイトとお酒を飲んでいました。

ダンスクラスのない日曜日は、朝から夜までアルバイトでした。 

とにかく睡眠が十分に取れていなかった私は、いつもダンスレッスン中のフロアに座って行うエクスサイズの時に寝てしまい、横にいるクラスメートに起こされていました。

また、たまに午後の空き時間が出来るとセントラルパークのベンチで寝ていました。

暗くなってくると、黒人のおじさんに「危ないから起きろ」とよく起こされたものです。

 

ダンスのクラスは、始め、何の知識もなくスクールに入ったので、初日から先生に「明日から白いTシャツと黒いタイツで来なさい(初日はジャージを履いていました)、そしてバレエのクラスを取る様に」と言われました。そしてあわててバレエシューズを買いに行きました。

ダンスを初めて習う私は、ダンスが何と難しいものかとその時思いました。

世界中から生徒が集まる有名な学校でしたから当然です。

でも何とかレッスンやバイトをこなしていました。

事件

学校とアルバイトが始まり、半年ほど経ったころに事件が起きました。

アルバイトをしていたラーメン屋に強盗が入ったのです。

以前から、そこで一緒に働いていた台湾人のおじさんに、ここはたまに強盗が入るから気を付けてねと言われていました。私はそんな話を半信半疑でいつも聞いていました。全く自分に起こるとは思ってもいなかったのです。

冬の寒い夜でした。

お客さんはもうみんな帰って、ウインドーの霜で外が見えない状況でした。

私が一緒に働いていた日本女性とまかないを食べていた最中に、アラブ系の男性が二人入ってきて、

金を出せと私たちに銃を向け、私たちは両手を頭の上に置いて地面にうつぶせにされました。

あ、これが台湾のおじさんが言っていたことだと思いだし、「金は持っていっていいから撃たないでくれ」と言ったとたんに私は撃たれました。

もちろん、私はこのことを今書いているのですから命は助かりました。

何か一瞬痛みが走った気持ちがありました。

それから、強盗たちが過ぎ去ったのが分かって起き上がると、私の左手は血まみれでした。

しかし、不思議とその時はそれほど痛みは感じませんでした。

「警察に電話を」一緒に働いていた女性に言いましたが、同僚の女性は気が動転していたので、私は右手でポリスに電話をしました。

すぐに警察は駆けつけましたが、事情徴収をするだけで私の怪我には気を留めていませんでした。

30分も経った頃、店のオーナーが来て私を病院へ連れて行ってくれました。

最初の病院へ行ってみると「これは治らない」と一言、日曜日の夜だったせいか帰れと言わんばかりでした。

日本では考えられないような対応で、こんな病院があっていいのだろうかと考えている間に次の病院へタクシーで行くとすぐに私は手術室へ運ばれました。

目が覚めたら、翌朝でした。

事件、その後

最初の入院は10日間で、私にとっては、生まれて初めての入院でした。

正直なところ、私の当時の思いは「撃たれてしまった」「怖い思いをした」と言うよりも、ダンスとアルバイトの息のつけない毎日から解放されて、ホットしていたところがありました。

好きなことをやっていて満足していたはずなのですが、肉体的に相当きつかったのではないかと思います。

それから退院して、何日か後に手術のため、また1週間入院しました。

その時の手術は、弾が貫通した左手薬指の下に手首の骨を少し取って移す作業でした。

麻酔は左手だけでしたから、意識ははっきりしていて周りが見えます。

医者がラジオを聴きながらやっていたことを覚えています。

ラジオなんて聞いて、手術は大丈夫なんだろうかと少し心配でした。

それが原因かどうかは分かりませんが、私の左薬指は元通りにはなりませんでした。

リハビリをしっかりしなかったせいもあるかもしれません。

でも左薬指は、現在でも曲がったままです。

又、何年か後のダンスオーディションで、指を伸ばすように言われた事を覚えています。

特に覚えているのは、ミュージカル”King and I(王様と私)”は、タイの話でタイ舞踊が多く出てきます。

手のひらを上に向けて出来るだけ指をそらせる動きがあり、私の場合、一本だけ真っ直ぐにならないので、振り付け師は気が付いて私に注意したことがありました。

また、今でも時々生徒さんが私と同じように(私の動きを細かく見てくださっている証拠です)左薬指だけを曲げて手を開いている事があります。

日常生活には全く支障はないのですが、このように、指を曲げているのがダンスの正しい形だと思ってしまう生徒さんには申し訳なく思います。

ダンス復帰

2回の入院の後、ダンスを踊りたくてたまらなかった私は、すぐ左手に石膏をはめてダンスに復帰しました。

石膏の重さ分だけ左側が重たい私は、始めバランスを取るのが大変でした。

特にバレエの「ピロエット」と言う回転は、それまでもあまり上手く出来なかったのに、全く出来なくなってしまいました。

また、固い石膏に体が当たると痛いので、クラスメートは私に近寄らないようにしていました。

今考えると、ちょっと無茶をしていたように思いますしクラスの先生もよくやらせてくれていたなと思います。

アルバイトは手が治るまで休みをもらい、失業保険で生活していました。

事件後、警察署で容疑者の顔を何人も見せられましたが全く分かりませんでした。

後になって聞いたのですが、この私の事件はその年のニューヨークの日本人の三大事件のひとつで、あとの二つも殺人で加害者は亡くなったそうです。

事件の時、頭を狙われたと思うのですが、手だけを撃たれたのは、私にもっと生き延びてやらなければならないことがあったからだと思いました。

親には心配させたくなかったので、一年後に伝えました。

家族に聞くと、その年に私の父は草刈り機で足の指を、材木会社で働いていた兄は同じく指を切ったそうです。

でも何とか二人とも指はつながったらしいのですが、ひどい状況だったそうです。

矢野家の男三人が、同じ年に指を切るということは「何かある」と思い、私の中では先祖の行った償いとその当時は考えていました。

したがって、怒りなどというものは全くありませんでした。

ただ、事件後一年くらいは、NYの街を歩くことに恐怖心がありました。

故障と一時帰国

手からは石膏が外れて、ますますダンスに夢中でした。

1年が過ぎた頃から、仲良くなったフィリピンの友人が所属していたダンスグループに参加させてもらったり、仲間と一緒に自主公演をするようになりました。

しかし、1年半が過ぎたころから、膝の調子が悪くなってきて、得意とするジャンプが出来なくなってきました。柔軟性とジャンプ力が人より優れていると過信していた私は、いつも張り切ってジャンプしていました。

しかし、着地の膝の使い方が良くなかったせいか、膝を痛めてしまっていたのです。

いくつかの病院に行きましたが、全く良くなる気配はなく足を休ませるいい機会だと思い、初めての帰国をしました。

たった2年間日本を離れていた私ですが、日本に帰ってみると自分が浦島太郎のように感じました。

ちょうど、実家から割と近い名古屋に、手の専門の医者がいると聞いて指を診てもらいに行きました。

行ってみると、先生は「3ヶ月ここに通えば治るよ」とおっしゃって下さいました。

でも、3ヶ月もダンスから離れることは出来ないと思った私は、お礼だけ言って帰りました。

ですので今も左薬指は曲がったままです。

膝の方は、日本の接骨院と休養でかなり良くなりました。

あっという間の日本での1ヶ月が過ぎて、ニューヨークに戻ってすぐにダンスを始めました。

しかしジャンプを思い切ってすると、膝はまた痛くなってしまいました。

この頃の私は、体をいかにケアしていくかがまだわかっていなかったようです。

ダンススクール

私が通っていたアルビンエイリーダンスセンターは、あらゆるジャンルのソロダンスのクラスがありました。

スクールの名前にもなっている創始者のアリビンエイリーという黒人ダンサーが中心にやっていたホルトンテクニックというモダンダンス、マーサグラハムテクニックのモダンダンス、クラシックバレエ、ジャズダンスなどが主なスタイルです。その頃はヒップホップなどのストリートダンスは文字通りストリートだけで踊るものでクラスで教えることはまだありませんでした。

他に、アフリカンダンス、マーシャルアーツとダンスを混ぜたようなブラジルのカプエラ、ストレッチクラス、振り付けクラスなど、色々ありました。

ただ、タップダンスだけはなかったので、これは違うスタジオで習っていました。

2年半通った頃、ほとんどのクラスは上級クラスまで行けましたが、クラシックバレエはまだまだでした。

バレエはダンスの基本ですから、もっとしっかりと身に付けたいと思っていました。

オーディション

ある日、トリニダード・トバゴ国出身の黒人クラスメートと話しをしていました。

「ダンスシアターオブハーレムの奨学金オーディションを一緒に受けに行かないか」と誘われたのです。

ダンスシアターオブハーレムは、マンハッタン153丁目のハーレムにあるダンス学校です。

黒人の舞踊団と言えば、当時通っていたアルビンエイリーダンスカンパニーか、このダンスシアターアブハーレムが世界的に有名でした。

アルビンの方は、モダンで、ハーレムの方はバレエのカンパニーです。

やはりハーレムと聞くとちょっと恐いイメージがありましたし、学校どころかそのエリアも行ったことがない場所なので不安はありましたが、クラシックバレエの学校への転校を考えていた所だったこともあり、行ってみようと決めました。

ところが、待ち合わせの場所に行きましたが、待てど待てどそのクラスメートは現れないので、仕方なく私一人で初めてのハーレムに行きました。

初めてハーレムを歩くのは、恐怖心と好奇心の両方がありました。

学校に着いてすぐにクラスに入り、オーディションが終わると色々と書類に記入するように言われ、明日から来るように(合格です)と言われました。

ここから、3年半のハーレム通いが始まりました。

NYの治安と引っ越し

ハーレムのバレエ学校に通いだした頃から、アパートもクイーンズ地区からマンハッタン地区に移りました。

ニューヨークに住みだして、20年以上の間に10回以上引っ越しすることになりました。

その間に、5回以上は泥棒に入られました。

現金を1回、ラジカセは3回盗まれました。

まあ、お金になるようなものは余り持っていませんでしたから、なくなったものも多くありませんでした。。

ただ、毎回部屋は散乱していました。3回目ぐらいからはまたかという感じですぐポリスを呼んでいました。

海抜1メートルのニューヨークは、地震、台風、津波、竜巻などの天災は、全くというほどありませんが、人災は常に用心しなければなりませんでした。

NY暮らし最後から2番目のアパートは、割と長く住み、ブロードウェイ劇場街からも近い所でした。

五階建てのそれは古いビルで、隣のビルには屋上からヒョイと飛べば移動できそうなほど隣が近くでした。

泥棒はビルからビルへと屋上伝いに簡単に移動できます。

隣に住んでいたモロッコ人のおじさんに、何度か泥棒退治に誘われました。

朝鮮戦争で鍛えられたというこのモロッコのおじさんは何故か日本刀を持っていて、私は木刀を持って屋上に行かされました。

実際に泥棒を見つけたことはありませんでした。

5階まではエレベーターを付けなくていいという法律のNYのアパートでしたので、毎日5階まで往復していました。

3階には、いつもドアを開けっ放しのアイルランドの家族が、真っ赤な顔をしてバドワイザーの空き缶を何本も並べて大声て話していました。

4階の黒人のミュージシャンの男性は、すぐ上のモロッコ人のおじさんに音楽がうるさいと言われ、いつも怒鳴りあいの喧嘩、またそのモロッコ人のおじさんは向かいのトリニダードドバゴのおばさんとも仲良くしたり言い合ったりして、私の部屋の周りはいつもうるさかったものです。

私はと言うと、部屋の中にベニヤ板を置いていつもタップダンスの練習、キーボードを弾きながら発声と歌の練習をしていました。

一番うるさくしていたのは私ではないかと思います。

しかし、このアパートでの日々は本当に充実した楽しい時でした。 

最後の部屋

ニューヨーク生活最後のアパートは、マンハッタンプラザと言うニューヨーク市が運営するビルの中です。

このマンハッタンプラザという、西43丁目にある2つのビルの住人は、独身のシニアかショービジネスで生計を立てているパフォーマー(歌、ダンスなど)でした。

申し込みが多い人気の所で、キャンセル待ち&退去待ちのウエイティングリストがとても多く、私も申し込んでから5年待ちました。

入る前の3年間は、何のショー等に出演したかどうかを全て報告しなければならず、家賃は収入の3分の一でした。

ですので、いったん入居すれば、収入が少なくても多くても関係ありません。

入ってみると、同じ階には、以前教わったことのある歌の先生や、ミュージカルで一緒に出演していた歌手、ダンススタジオのバレエの先生など、ベテランの芸能関係の人ばかりでした。

日本人は二つのビルで、ジャズミュージシャンが二人、アメリカ人と結婚していた知り合いのダンサーの女性が一人いました。

部屋は広く整っており、リハーサルルームもあり、ブロードウェイショーのチケットも殆ど無料でもらえました。

さすが、文化芸術の盛んなニューヨークならではの支援の仕方です。

ここに住んでいるときに、私も日本女性と結婚をしました。


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